第34話
食事を終えると、立花は自身のバッグから、紺色の小さなジュエリーケースを取り出した。
そして、貝殻のように上下に開かれた箱を、嶺奈の目の前に差し出す。
白いクッションの中に鎮座していたのは、リングの中央に小さなダイヤが埋め込まれた、シンプルなデザインの指輪だった。
新しい指輪、本当に用意してくれてたんだ……。
疑っていたわけではないけれど、正直驚いてしまう。
嬉しいと思う反面、今までのことを考えると、複雑な感情が絡み合っているのも、また事実だった。
指輪から視線を上げると、彼と目が合う。
いつものふわりとした優しい笑みを封印して、真剣な眼差しをしていた。
その瞳を見ていると、こちらまで緊張してしまう。
「これは偽装でも、嘘でもない。正式な婚約。……嶺奈が俺を受け入れてくれるなら、この指輪を受け取って欲しい」
差し出された指輪を見つめたまま、嶺奈は思考する。
この指輪を受け取れば、私は良平さんと婚約を交わすことになる。
けれど、彼に対して罪悪感をずっと抱えたまま婚約をすることに躊躇いを覚え、安易に答えることが出来なくて、口ごもってしまう。
そんな嶺奈の思考を見透かしたように、立花は言葉を続けた。
「嶺奈が俺に対して、何か引け目を感じているなら、それは違うよ。君のせいじゃない」
「どうして。だって、私は現に良平さんを裏切っ──」
「それでも構わないって言ったはずだけど? 嶺奈が阿久津のことを諦め切れないのは、薄々気付いていたし。けど、俺も諦めるつもりはさらさら無かったから」
良平さんは私の気持ちに気付いていて、あえて知らないふりをしていたのかと思うと、居たたまれない気持ちになってしまう。
私の愚行を止めなかったのは、彼の優しさなのか。
「……私は良平さんに想ってもらえるほど、良い人じゃない。それに、もし、私がまた同じことを繰り返したら?」
自分でも最低な問い掛けだと思う。
けれど、良平さんの答えを解っていても、訊いてしまうのは不安だからかもしれない。安心ばかり求めているのは、誰かに愛される自信がないから。
「そうならないように、俺が努力するだけだよ」
彼は真っ直ぐな視線で嶺奈を見据えて答えた。
ほら、貴方はいつも私の欲しがる答えを用意している。
彼は私を否定しない。
その優しさが苦しいのに、甘えてしまうのは、私の意思があまりにも脆くて弱いから。
底の見えない海に溺れていく感覚に、嶺奈は抗うことを止めた。
嶺奈は決意して、微かに震える指先で、ジュエリーケースを受け取り、彼に告げた。
「……私で良ければ、お願いします」
数秒の沈黙の後、伏せていた視線をゆっくりと上げると、彼が安堵の表情を浮かべているのが見えた。
「良かった……。やっぱり無理って言われたら、どうしようかと思ってた」
「無理だなんて思わないわ。むしろ、私のほうが拒絶されると思ってたから……」
「そんなことはないよ。言ったでしょ。嶺奈が俺を必要としなくなるまで、側にいるって」
そう言って、彼はいつもの優しげな微笑を浮かべた。
貴方が私を赦してくれるというのなら、私は貴方の望みを全て受け止めて、叶えたいと思う。
例え、それが、私自身を苦しめるとこになったとしても──。
同日の深夜。二人はレストランから帰宅した。嶺奈の左手薬指には、新しい指輪が着いている。それは、二人の間に交わされた新たな契約の証だった。
二人でベッドに向かい合うように横たわり、眠るまでの間、照明を暗くした部屋で、静かに語り合う。
彼は慈しむように、嶺奈を自身の胸元まで抱き寄せる。彼の体温が心地よくて、つい目蓋を伏せて、安心感に身を委ねた。
この穏やかな時間が、永遠に続けばいいのにと、胸中で秘かに願う。
私と良平さんが初めて会ったという日のことを、彼は本当に話してくれるだろうか。
少し不安を覚えながらも、嶺奈は意を決して口を開いた。
「教えてくれる? 私と初めて会ったときのこと」
これでもし、誤魔化されたなら、この話題について触れるのは、もう辞めよう。そう思いながら、彼の言葉をじっと待つ。
「教える約束だったね。……どこから話そうか」
嶺奈の言葉に彼は穏やかに答え、思案する。
そして、ぽつぽつと嶺奈との邂逅を語り始めた。
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