第32話 忠誠の口づけ。

 そう言って、彼は嶺奈の左手の甲に軽く唇を落とした。──まるで、忠誠を誓うように。


「良平、さん……?」


「本気だから」


 あまりに突然のことで、嶺奈は返事をするのさえ忘れて、彼を見入ってしまう。


 本気って、まさか結婚のこと?

 

 一瞬、脳裏に横切った考えを否定して、冷静を保とうとする。


 私はどこまで、浅はかなのだろう。そんなわけはないのに、少し期待してしまう。


 けれど、嶺奈が保とうとした冷静さは、彼の言葉によって、すぐに崩れ去った。


「……本当は明日言う予定だったんだけど。まさか、嶺奈がこんなにも突発的に行動するとは思わなかったから、正直すごい焦った」


 嶺奈から遅くなるという連絡を受けたとき、彼は嫌な予感がして、帰宅後すぐに車を走らせたという。


 ──また君が泣いているような気がしたから。


 その予感は見事的中し、彼は嶺奈を連れ帰ったのだ。


 彼が必死になって、私を探し出してくれた理由を知り、自分勝手に行動したことを酷く悔やんだ。


 もし、あのまま亮介のもとへ行っていたら、こんな未来は永遠に訪れることはなかったはずだ。


「……プロポーズってこと?」


 彼の真意を確かめるように呟く。


 私の勘違いなら、それでも構わない。


 でも、もし違うのなら──。


 私は望んでも、良いのだろうか。

 良平さんとの未来を──。


「そう。レストランを予約して、明日のために色々と準備してた。だから、嶺奈を見つけられて良かった。もし、君が阿久津を選んでいたら、明日独り寂しくレストランで食事してたかと思うと……ね」


 苦笑を浮かべて、彼はスーツのポケットから指輪を取り出す。


 それは復讐の契約を交わした頃に、彼が買ってくれた指輪だった。値段が高価だったこともあり、結局一度も着けないまま、ジュエリーケースに大切に仕舞っていたのだ。


 彼は、その指輪を嶺奈のドレッサーの引出しから、こっそり持ち出していたようだ。


 これでは、万が一無くしたとしても気付かないかもしれない。


「それとこれ、一度も着けてなかったから、気に入らないのかと思って、指輪も新しく用意したんだけど……」


「それは気に入らないんじゃなくて、失くしたくないから、大切に仕舞ってただけよ。……良平さんから、初めて貰ったものだから」


 最初は偽の婚約だけで満足だった。けれど、いつしか、それだけじゃ満たされなくなって、良平さんに惹かれ始めていたのだと気づいた。


 この指輪を着けることが出来なかったのは、その気持ちを認めるのが怖かったからだ。


 良平さんの言う、好きという言葉に確信が持てないまま、次に進むことを躊躇っていた。


「そっか。そう思ってくれてたなら嬉しい」


 彼はごく自然な動作で、嶺奈の左手薬指に指輪を着けて、微笑む。けれど、立花とは対照的に嶺奈の表情は翳りを見せていた。


 嬉しいはずなのに、どこか気が晴れないのは、私がまだ迷いを捨てきれないでいるからなのか。嶺奈は胸中に掠めた不安を吐露する。


「……良平さんは、本当に私でいいの?」


 ──私を選んで、後悔しない?


 最後の言葉を飲み込んで、彼の様子を窺う。


 良平さんは優しいから、情が移り私のことを見捨てられなくなっているだけなら、それは彼の本当の意思ではない。


 だから、彼の答えを聞いて、傷付いたとしても私は受け止めなければいけない。


 そんな嶺奈の覚悟を溶かしていくように、彼は自分自身の思いを告げる。


「まだ足りないなら、俺は何度でも言うよ。嶺奈以外の人と結婚する気はないし、好きになる気もない。……最初から嶺奈以外の女性には興味ないんだよ、俺は」


 他人が聞けば、重すぎて引いてしまうような言葉も、これが彼の本当の気持ちだと知り、嶺奈は素直に受け止めた。


 特別な魅力もない私を、彼は愛してくれているという事実に、また涙が溢れそうになる。


 私はいつから、こんなに泣き虫だったのか。良平さんと出会ってからは、泣いてばかりだ。


 恥ずかしさで俯いた嶺奈の顔を、彼は少しだけ強引に上向かせて、唇を重ね合わせた。


 私がまた道を踏み外したとしても、彼はきっとこうして私の手を引いて、導いてくれるに違いない。



 翌日。二人は仕事を終えた後、彼が予約しているという都内の高級レストランに向かった。


 クリスマスということもあり、街は色鮮やかなイルミネーションで飾られ、幸せそうな恋人達の姿で溢れていた。


 嶺奈は着なれないドレスを身にまとい、普段は使わない、ピンクベージュのルージュを唇に引いていた。


 彼の隣に並んで歩くだけで、こんなにも緊張しているのは、クリスマスという非日常のせいだ。


「やっぱり、嶺奈にはこういうドレスがよく似合うよ」


「良平さん、いつの間に用意してたの……」

 

 まさかドレスまで、用意しているとは思わず、嶺奈は呆れ気味に立花を見上げる。


 もし、私が断っていたら彼は、どうするつもりだったのか、少しだけ気にならないでもない。


「前に選んだドレスは嶺奈が勝手に決めたから。今度こそは俺が選びたいと思って、色んな店を一人で見て回って決めたんだ」


 良平さんがずっと根に持っていたのは、ドレスの事だったようで、自分のことのように自慢げに話す彼を見ていると、とても可愛く思えてしまう。


 彼曰く、悩みすぎてドレスを選ぶだけで、一週間も掛かったらしい。


 ということは、指輪を選ぶのには一体どれだけの時間が掛かったのか。想像すれば……聞くのが少し怖くなる。 

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