第31話

 二人でマンションに帰宅すると、彼は嶺奈を咎めるわけでもなく、身体を温めるように促した。


 シャワーを浴びて服を着替え終わると、リビングに向かう。まるで、あの日の出会いを再現したかのような既視感だった。


 良平さんに救われたのは、これで二回目で、何かある度に懲りずに雨に濡れる私を、彼は内心呆れ果てているに違いない。


「はい、ホットミルク。温まるよ」


 キッチンから二つのマグカップを手にして、彼は嶺奈の隣に腰掛けた。


 手渡されたカップを両手で包むように持つと、程よい温かさが手のひらに広がる。ミルクと蜂蜜の優しい香りが、鼻先を掠めた。


「……ありがとう」


 立花は彼女からの自発的な発言を待つように、煙草を取り出して火を点した。


 灰となって少しずつ短くなっていく煙草を見つめながら、嶺奈は思考する。


 沈黙が長引くほどに、言い出しづらくなると分かっているのに、言葉は思うように出てこない。


「ごめんなさい……」


 嶺奈が時間を掛けて、ようやく絞り出した言葉は、彼に対する謝罪だった。


 私は良平さんを裏切り、ずっと罪悪感を抱え続けていた。今は亮介の言葉に期待していたことを後悔している。

 

 けれど、たった一言の謝罪で、今までの全てが許されるとは当然思ってはいない。


 嶺奈は目蓋を閉じて、彼の言葉を待つ。一瞬が永遠にも感じた。けれど、彼が発した言葉は意外なものだった。


「謝る必要はないよ」


 突き放したような彼の物言いに、嶺奈は茫然自失し、行き場を失くした言い訳は、散り散りに霧散していく。

 

 いくら悔恨しても、もう遅い。犯した過ちは無かったことには出来ない。


 私は心のどこかで、良平さんが許してくれるのを期待していたのかもしれない。


 けれど、勝手に裏切っておいて、都合が悪くなったら助けてもらおうだなんて、あまりにも虫が良すぎて、これでは亮介のしていることと何も変わらない。


 私の謝罪は、ただの自己満足に過ぎなかった。


 嶺奈は口を堅く閉ざして、静寂に耐える。


 良平さんが望むのなら、私はどんな罰も受け入れると、あの時、自分自身に言い聞かせたはずた。

 

 それなのに、いざとなると怖くて彼の顔を見ることが出来なくなっていた。


「顔上げて、嶺奈」

 

 立花は俯いていた嶺奈の顔に触れて、そっと振り向かせる。そして、言葉を続けた。


「俺は……嶺奈が戻ってきてくれるなら、それだけでいい」


 彼の視線から逃れることは出来なくて、嶺奈は必死に涙を押し留めて、見つめ返す。


 止めどなく溢れ出す暗い考えから、掬い上げてくれたのもまた彼だった。真正面から思いを伝えられ、嶺奈の心の痛みは増していく。


 彼もまた、今にも泣いてしまいそうな表情をしている。


 お互いに傷付けあっても、そこに幸せは生まれないと、分かっていたのに。


 泣くのは、私じゃない。


 それでも、我慢していた涙は零れ落ちて頬を伝い、涙痕を残していく。


「良平さんは、どうしてそこまで優しいの? ……私は貴方を裏切ったのに。責められて当然のことをしたのに……」


「嶺奈のことが好きだから。例え、君に何度裏切られても構わない」

 

 彼の言葉に、一切の迷いは感じられなかった。


 私は一体、何をしているんだろう。


 こんなにも一途に想ってくれる人が、隣にいると知りながら、どうして一瞬でも亮介に靡いてしまったのか。


 あの日々で寂しい思いをしていたのは、私だけじゃない。良平さんも同じだったのに。どうして、自分のことしか考えられなかったのだろう。

 

 離れかけた私の心を繋ぎ留めるように、良平さんに身体を引き寄せられる。


 彼に抱き寄せられる度に、苦しさを感じていたのは、嘘をつく悲しさを知っていたからだ。


 もう、貴方を裏切ったりはしないから。


 だから、もう一度だけ……。


 自身に誓いを立てるように、心の中で祈る。


「嶺奈は俺のこと、優しいって思ってるんだ」


「優しすぎるくらいよ……」


 頭上から落ちてきた声に、嶺奈は答える。優しすぎるから、私を駄目にしてしまう。無意識の内に、彼のその優しさに甘えていたのだと思い知った。


「そっか。……嶺奈にはそう見えるだけで、内心は酷いものだよ。君には到底見せられないような感情が渦巻いてる。嫉妬とか、そんな生ぬるいものじゃない」


 彼の心にはどんな感情が渦巻いてるのか。知りたいと思う気持ちと、少しの戸惑いがせめぎ合う。

 

 ほんの少しでも彼の本音が知れるなら、どんな些細なことでもいい。


 嶺奈は自身の誘惑に負けて、問い掛ける。

 

「……例えば?」


「聞きたいの?」


「知りたい。どんな感情を持っていても良平さんだから」


 立花は嶺奈の顔を見つめ、逡巡した後、ゆっくりと口を開いた。

 

「嶺奈と結婚して、阿久津に見せつけてやりたい。……嶺奈を幸せに出来るのは、俺だけでありたい」

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