第30話

 嶺奈の怒りの矛先は、亮介にではなく美緒に向いていた。


 二人の関係を壊したのは、間違いなく美緒本人なのに、どうして私達が苦しめられなければいけないのか。


 強気だった亮介が、曖昧な態度で誤魔化すようになって、変わってしまった亮介が許せなかった。


 貴方はもう私の知っている、貴方じゃない。

 

 私の亮介を返してよ──。


「もう……いい。これ以上は聞きたくない。私が……耐えられない」


 ──亮介の嘘つき。


 そう罵倒したいのに言えなかったのは、心の底から亮介を嫌いになれないからだ。決別出来ない自分の弱さにうんざりしてしまう。


 そもそも、私があの時、亮介の言葉を聞いて心が揺らがなければ、こんなことは起こりようもなかったはずだ。


「嶺奈」


 嶺奈の名を呼ぶ亮介の声は、もう彼女には届かない。


 夢なんて、見なければ良かった。

 亮介を信じなければ良かった。


 期待していた私が馬鹿だった。


 違う。本当は薄々、気付いていた。亮介から連絡が来ない時点で、駄目だったと私が理解するべきだったんだ。


 悔しさが涙となって滲み、今にも零れ落ちそうで、嶺奈は亮介に背を向ける。


 もう披露宴のときのような失態は犯さないと、決めていたのに。


 私は弱虫な自分が大嫌い。だから、もう貴方に心を許したりはしない。これで、本当に終わりにするから。


「……さよなら」


 亮介──。


 嶺奈は亮介の返事も聞かずに、個室を飛び出した。


 店の外は雨が降り始めていた。


 冬の冷たい雨は、身体を突き刺すような寒さで、身体の芯から凍えてしまいそうだった。夜空は雲に覆われていて、星も月すら見えない。真っ暗闇だった。

 

 私の心も、このまま凍結してしまえばいいのに。

 

 天気さえも私の味方はしてくれない。存在を否定されているような気がして、嶺奈は雨に濡れることも厭わずに街中を歩き出した。


 良平さんのいるマンションには戻れない。戻りたくなかった。今は何を聞かれても答えられる気がしなかったから。心配もかけたくなかった。


 終電を逃して行き場を失い、独り立ち尽くす。周りの好奇の目に晒されても、最早何も感じなかった。通行人達は遠巻きに嶺奈を見ては、皆見ぬふりをして、足早に通り過ぎていく。


 寒く感じるのは身体か心か。


 私はどうすれば良かったのだろう。


 独りぼっちで、迷子の気分だった。誰かが私の手を引いて、導いてくれたら。出口の見えない暗闇から、救い出してくれたらいいのに。


「──風邪ひくよ。嶺奈」

 

 そんな都合のいいことばかり考えていると、声が聞こえた気がした。どうやら私は、幻聴まで聞こえるようになってしまったらしい。


 そして、不意に視界を遮る雨が止んだ。ビニールに弾けて、流れ落ちていく雨音が鼓膜に響く。


 後ろから傘を差し出されたと理解するまでに、数秒間、思考が停止した。


「探した……」


 相手は自分が濡れることも顧みず、嶺奈を抱きしめる。


 ──良平、さん。


 どうして、私の居場所が分かったのだろう。どうして、私を迎えに来てくれたのだろう。


「気は済んだ?」


 彼はそれ以上のことは聞かずに、嶺奈の返事を待ちわびる。寒さで震えているせいで、嶺奈は思うように声が出せずに、微かに頷いた。


 私が迷い、苦しんだとき、彼は救世主のようにいつも突然に現れる。


 我が儘で、嘘つきで、最低な私のことなんか、放って置けばよかったのに、彼はそれを良しとはしなかった。


 愛される資格も、許される資格も私には少しも無いのに。


 強引に繋がれた右手に、彼の熱が移り、冷えた指先は、少しずつ温かみを取り戻していく。


 迷子を先導するように、立花は嶺奈の手をしっかりと握りしめると、ゆっくりと歩き出した。

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