第21話

 亮介の左手薬指には、プラチナの指輪が嵌めてある。それは、彼が結婚をした証だった。


「座ってもいいか」


 彼はリビングのソファを指差す。


「どうぞ……」


 警戒心を緩めないように、嶺奈はリビングの入り口から動こうとはしなかった。いざとなれば、玄関からすぐに逃げられるように。


「……そんなに警戒されると辛いな」


「今さら何しに来たの。場合によっては警察も呼ぶわ」


「警察は困る。けど、俺はただ嶺奈と話したかったんだ」


 亮介が伏せた眼差しは、どこか苦し気だった。その姿は、結婚をして幸せの絶頂を迎えているようには、とても見えない。


 披露宴のときよりも、さらに痩せた気もする。


「私には今、付き合ってる人がいるの。だから、こんなことをされても困る。亮介だって、結婚してるんだから、もう私に会いに来ないで。……合鍵も返して」


「付き合ってる人って、良平だったよな。あいつに、嶺奈を取られるとは思わなかった」


 取られる? 亮介は一体、何を言ってるんだろうか。私は取られたのではなくて、捨てられた側だ。


「意味が分からない。勝手に捨てたくせに、よくもそんなことが言えるわね」


「捨てたくて、捨てたわけじゃない」


 嶺奈を見据えて、彼は言う。


「浮気してたくせに。白々しいこと言わないで」


「だから! 俺は……」


「帰って! 二度と私に近付かないで。もう、忘れたいの」


 亮介のことなんか──。


「美緒が妊娠したっていうのは嘘だったんだよ! 俺だって、嵌められた側なんだ」


 美緒というのは亮介の結婚相手のことだろうか。それに、嵌められたってどういうこと?


 彼女の妊娠は嘘だったの? 亮介の言葉に、ますます理解が追い付かなくなる。


「手も繋いでなかったし、キスすらしてないのに、どうやったら妊娠なんかするんだよ。ふざけてるんだよ、あいつは」


 声を荒げて、ヒートアップしていく亮介に、嶺奈は宥めようとした。

 

「ちょっと、落ち着いて」


「俺は浮気なんかしてない。好きだったのは嶺奈だけだったし、結婚するのも嶺奈だけだって決めてた。だから、婚約したんだ」


「…………」


 浮気をしていないなんて言葉、今さら誰が信じるというのだろうか。

 

 彼に好きだと言われたのに、心は少しも動かなくて、ただ、心の内側にあったのは、良平さんに対する想いと、亮介への同情心だけだった。


「くそっ……こんなはずじゃなかったのに」


 亮介の剣幕に嶺奈は後退り、距離を計る。こんなに取り乱した彼を、付き合っているときには、一度も見たことはなかったから。


「もう、うんざりなんだよ。時期をみて、離婚する。だから、俺と寄りを戻して欲しい」


 そんな話をされたからって、はい。そうですか。って、言えるわけがない。


 良平さんと出会う前なら、心が揺らいでしまったかもしれない。けれど、私は過去と決別した。


 今はまだ、古傷が痛むこともあるけど、その傷も、痛みも過去も、全てを私は良平さんに委ねている。


 二人はもう別々の道を歩き出してしまった。時は戻らないし、過去は変えられない。


「無理よ……」


 悲痛な亮介の叫びに、胸が痛んだのは事実だ。でも、これでいい。同じ轍は踏まない。


 私達はきっと、こうなる運命だった。


「俺より、良平のほうがいいのか」


「そう、ね」


 嶺奈の言葉を聞いて、亮介が不意に流した涙。それは、私が初めて見た、彼の涙だった──。


 

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