第20話


「その傷、どうしたの」


 週末の夜、嶺奈は立花とホテルの室内にいた。


 彼の口許がほのかに赤みを差している。唇も少し切れているようで、乾いた血が微かに付着していた。


 嶺奈はホテルで待ち合わせをして、彼と顔を合わせたとき、すぐにその異変に気づいたのだ。


「あー……、これは……転んだ」


 あまりにも下手な嘘に、余計に不安が募り、嶺奈は彼を強引にソファに座らせた。


 顔を近付けて、傷口を確認する。


「消毒液も持ってないし、絆創膏ならあるけど……」


 言いながらバッグの中を漁り、嶺奈は小さいポーチを取り出す。


「消毒なら嶺奈がしてくれるでしょ?」


「え? だから、持ってない」


 微笑し、唇を指差された。


 まさかとは思うけど、キスをしろって言ってるわけじゃないよね。嶺奈は彼の様子を窺う。


「嶺奈からして?」


 けれど、その予想が的中して嶺奈は気が動転した。


「で、でも。痛むかもしれないから」


「嶺奈がしてくれたら、一瞬で治りそう」 


 そう言って、彼は嶺奈からのキスを待っているようだった。

 

「……分かった」


 身体が羞恥で染まる前に、嶺奈は立花に近づく。そして、触れるか触れないかの僅かな口づけをした。


 彼から離れようとして、目蓋をゆっくりと開く。けれど、再び身体を引き寄せられ、口づけは深いものへと変わった。


「……っ!」


 咄嗟に唇を離した彼は、顔を歪ませ、口許に手を添える。やはり、まだ痛むようだ。


「ごめん……。まだ少し痛むみたいだ」


 申し訳なさそうに、呟く。

 

「だから、痛むって言ったのに」


 嶺奈はそんな彼を見て、少し咎めるように言う。


「治るまでは、キスは出来そうにないね」


 乾いていた傷口が先ほどのキスで、少し開いてしまったのか、彼の口許には再び血が滲んでいた。


 嶺奈は考える。

 この傷は誰から受けたものだろう。


 良平さんは荒事をするような人には見えない。なら、一方的に攻撃を受けた可能性もある。心配になり、嶺奈は隣に腰掛け、彼を見上げた。


「警察には行かないの?」


「俺はそこまで柔じゃないよ。だから、嶺奈は心配しなくていい。ただの──」


「ただの?」


「いや、何でもない」


 彼が言葉を濁したのは、嶺奈には言えない、何かがあるからなのか。


 考えるほどに不安がつきまとい、眠ることは出来なかった。



 それから、数日後のことだった。


 定時で仕事を終えて、会社を出ると、そこにいたのは良平さんではなく、亮介の姿だった。


 どくんどくんと心臓が大きな音を立てて脈を打つ。


 どうして、亮介がここに──。


 強く握り締めたバッグの取っ手は、汗で濡れてしまい、うまく掴むことが出来ない。


 この感情は恐怖か。それとも、他の何かなのか。


「良かった……。嶺奈、まだこの会社で働いてたんだな」


 そう言って、亮介は嶺奈の勤める会社を見上げる。


 その隙に逃げてしまおうと思ったのに、身体は金縛りにあったように一つも動かなかった。


「ストーカーみたいなことをして悪い。けど、こうでもしないと、嶺奈に会えないと思ったから」


「話すことなんて何も……」


「とりあえず、家行ってもいいか」


 本当は断りたかった。けど、出来なかった。今、断ったら、何をされるのか分からなかったから。


 彼からの連絡を絶つなら、会社も自宅も変えるべきだったのか。亮介について歩きながら逡巡する。


 けれど、亮介の為に、そこまでしなければいけないのは正直、癪に障る。


「鍵……」


 玄関先で立ち止まり、鍵をバッグの中から探す。そんな彼女の様子を見て、亮介はスーツのポケットからキーケースを取り出した。


「まだ、合鍵持ってるから」


 亮介が私の自宅の合鍵をまだ処分していないことに嫌悪し、背筋に寒いものを感じた。


 警鐘が脳内で鳴り響く。


 入ってはいけないと。


 お願い。入らないで──。


 そう言えたら、どれだけ良かっただろう。けれど、嶺奈は亮介に従うことしか出来なかった。

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