第18話
翌日、彼は約束通りに私を迎えに来てくれた。不安が杞憂で終わったことに少しほっとした。
けれど、彼の口数がいつもより少ないのは、昨日のことがあるからなのか。
退院手続きを済ませ、病院の玄関口で立ち止まる。この無言の空気に耐えられそうになかった嶺奈は、タクシー乗り場に向かおうとした。その腕をとっさに掴んだのは、無論立花だ。
「今、車持ってくるから、ここで待ってて」
嶺奈に有無を言わせずに、立花は駐車場に向かった。
私の自宅マンションに向かう車内でも無言が続く。駐車場に到着し、立花は車のエンジンを切った。
「荷物、部屋まで持っていく」
彼はシートベルトを外しながら言う。
「そこまでしなくていい。ここで十分よ。……今日は迎えに来てくれて、ありがとう」
礼を言って、車を降りようとする。その腕を捕まれ、引き留められたのは今日で二回目だった。
「俺から逃げないで」
「逃げたのはそっちでしょ」
「確かに昨日は俺も気が動転してたんだ」
狭い車内で二人はみっともなく言い争う。端から見れば、痴話喧嘩に思えるシーンだった。
「ちゃんと話すから。これ以上、嶺奈に嘘をつきたくない」
嶺奈は彼の視線から逃れることが出来ずに、微かにため息をつく。
「……分かった。好きにして」
それで彼の気が済むのなら、言いたいだけ、言わせておけばいい。そう思った嶺奈は彼の話を受け入れた。
人目を気にした嶺奈は、彼を自宅に招き入れた。普段から部屋を片付けておいて良かった、と内心安堵する。
「コーヒー淹れてくるから」
そう言って、ふと思い出したのは、彼の自宅に招かれたときのことだった。今は、あの時とは真逆の立場だけれど。
「灰皿って必要?」
食器棚からコーヒーカップを取り出しながら、灰皿になりそうな物を探す。そして、棚の奥から一枚の皿を取り出した。
……これ、亮介から誕生日プレゼントで貰った物だ。
彼が部屋に来たときに使おうとしたけれど、結局使う機会を見失って、仕舞い込んでいたのを忘れていた。
もちろん、物に罪はない。けど、これを大切に取っておく必要もない。なら、最後に一度だけ使って処分しようと思う。
彼の──亮介の思い出はもう要らないから。
「灰皿じゃないけど、これ使って」
自分でも最低だなと思うし、子供っぽいことでしか亮介に抗えないなんて哀れだ。
良平さんに皿を差し出したとき、罪悪感がちりちりと胸を焦がした。
「ありがとう。けど、なるべく吸わないように努力するよ」
二人分の珈琲を用意して嶺奈は席に着く。
「嶺奈、コーヒー苦手じゃないのか」
受け取ったカップを見て、立花は疑問に思ったのか、嶺奈のカップに視線を移す。
中身は無論、立花と同じ珈琲だ。
「紅茶のパックを切らしていたの」
紅茶のパックを切らしていたことに気づいたのは、彼の珈琲を用意しているときだった。
仕方なく、苦手な珈琲に角砂糖を一つだけ入れたものを用意した。
一口飲んでみると、苦味が先行して、どうにも慣れない味が、喉を滑り落ちた。
彼も同じく珈琲を一口飲んで、カップをソーサーに置いた。
「……阿久津とは同じ会社で働いている」
会話の口火を切ったのは彼からだった。
「岡田カンパニー、ね」
嶺奈が口にした岡田カンパニーは、都内を拠点とする大手企業で、とても有名な会社だ。
今までの彼の羽振りの良さを見ていると、大手企業に勤めているだろうということは、なんとなく察しがついていた。
だから、あの披露宴に良平さんが居たことも別段、不思議ではない。むしろ、あの場に呼ばれた私の方が可笑しかったのだ。
「同僚?」
「そう。同じ営業課」
それなら、亮介と関わる機会も多かったはずだと納得してしまう。
何も知らなかったのは私のほうで、彼は私よりも亮介のこと知っていた。
「どうして、私を知っていたの」
「亮介がよく、嶺奈の名前を口にしていたから」
亮介が? にわかには信じられない。けど、彼が嘘をついているようにも見えなかった。
「そう……」
言葉が見付からず、カップの揺れる珈琲を見つめる。
「君の写真も見せてもらってた」
「写真?」
付き合いたての頃は、二人で何処かへ出掛ける度に、亮介に一方的に写真を撮られていた。
薔薇園に行ったときに、亮介に撮ってもらった写真は、私のお気に入りの一枚だった。
「もしかして、これ?」
携帯の画像フォルダを漁り、一枚の写真を立花に差し出す。
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