第16話

 彼は私を見つめたまま硬直していた。


「良平、さん……」


 無意識に彼の名を呼ぶ。


 どうして、あなたがここにいるの?


 状況を飲み込めず、嶺奈は手にしていたシャンパングラスを床に落とした。


 瞬間、演奏者が奏でるグランドピアノの音色が止まり、辺りの視線が嶺奈に集中する。


 思考が追い付かない。意識が朦朧とし始める。


 ふらりと椅子から立ち上がり、胸に手を当てる。異常なくらいの心拍数だった。


 ああ、私。また騙されてたんだ。


 そう悟った時、嶺奈の意識はそこで大きく揺らいだ。


 身体の力が抜け落ちる。

 もう、自分の足で立っていられない。


「嶺奈!」


 意識が完全に途切れる僅かな間、私の名前を叫んだのは誰だったのか。


 考える暇もなく嶺奈は、その場に崩れ落ちた──。



 ゆっくりと目蓋を開くと光がやけに眩しかった。視界がぼやけて、うまく定まらない。嶺奈の瞳には、クリーム色の天井が映っている。


 ここは、どこだろう。


 ぎこちなく視線を動かす。身体の自由は利かず、戸惑う。けれど、自身の左手には人の温もりを感じた。誰かが私の手を大きな手のひらで、まるで壊れ物を扱うように優しく包み込んでいる。


「嶺奈?」


 聞き覚えのある声に、脳がゆっくりと覚醒し始める。


 この声は、良平、さん……?


「良かった……目が覚めて……。医師を呼んでくるから、待ってて」


 彼は目覚めた嶺奈の様子に安堵すると、返事も聞かずに病室を離れた。


 医師、ということはここは病院だろうか。披露宴会場で倒れた後の記憶がない嶺奈は、自分がどうして病院にいるのか解らずにいた。


 ベッドに横たわったまま軽い診察を受ける。嶺奈の病状を立花は心配そうに聞いていた。



「心労が重なって倒れたんだ」

 

 今だ口を開くことの出来ない嶺奈に代わり、立花は酷く沈んだ様子で、一方的に話を続ける。


「ごめん……」


 ごめん。って、何が?

 私を騙していたこと?


 それとも、他に理由があるの?


 どうして、良平さんはあの披露宴にいたの? 亮介のこと、知っていたの?


 問い質したいことは沢山あるのに、声が出なかった。涙さえ渇き切ってしまったのか、流れてはくれない。


 あまりにも惨め過ぎて、今すぐにでも、ここから消えてしまいたい。


 披露宴に行かなければ、こんな事実、知らずに済んだのに。


 僅かな幸せを感じたままでいられたのに。


 全てを拒絶するように、嶺奈は再びゆっくりと目蓋を閉じた。



 ……言い争う声が、何処からか聞こえる。


 これは夢? それとも、現実?


 揺蕩う意識の中で、嶺奈はその声に耳を澄ませた。ベッドはカーテンで仕切られているが、それでもここまで聞こえてくるこの声は、おそらく病室の廊下からだ。


「──だから、嶺奈に会わせろって言ってんだよ」


「それは出来ない」


「お前にそんな権利ないだろ」


「その言葉、そっくりそのまま返すよ。帰れ。お前を嶺奈に会わせるわけにはいかない」


 初めて聞く立花の冷血な声音に、嶺奈は現実逃避するように自身に言い聞かせる。


 これは夢なのだと。


 嶺奈がそう思ったのは、立花と言い争う相手の声に聞き覚えがあったから。


「俺は──」


「何度も言わせるな。彼女を捨てた阿久津に権利なんてない」


 立花は相手の言葉を最後まで言わせず、ばっさりと切り捨てた。


 ──阿久津。


 やっぱり、そうか。

 独り、心の中でごちる。


 良平さんは亮介のことを知っていた。


 そして今、病室の廊下で周りの迷惑も考えずに言い争っていることに、辟易する。強張った身体をゆっくりとベッドから起こして、嶺奈は病室を抜けようとした。


 と、同時に扉が開く音が聞こえた。嶺奈を遮っていたカーテンが静かに開かれる。


「なっ! 病み上がりなんだから起きたら駄目でしょ」


 けれど、目の前に現れたのは良平さん、ただ一人だった。

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