第9話
エントランスを抜けると、マンションの近くに黒い乗用車が停めてあるのが見えた。
きっと、あの車が彼の愛車なのだろう。
近付くと、彼が運転席から降りて、嶺奈に向かって軽く手を上げた。
「おはよう」
「おはよう、ございます」
お互いに手短に挨拶を済ませて、嶺奈は彼の車に乗り込んだ。
車が走り出してから数十分が経過していた。
途中でコンビニに寄り、立花は珈琲を嶺奈はミルクティーを購入して、今もまだ目的地に移動中だった。
「どこに行くの」
目的地を言わない立花に、嶺奈は再度問う。
「秘密」
けれど、彼はその質問に答えず、運転を進める。
景色は都会の街並みから、静かで鮮やかな海辺に移り変わろうとしていた。
嶺奈はふと、ハンドルを握り、真剣な眼差しで運転をしている彼の姿を、ちらりと横目に見る。
今日の彼は黒縁の眼鏡を掛けていた。
無地の白いカッターシャツに、黒のボトムスという出で立ちで、スーツではない姿に、少し新鮮味を感じる。
「もしかして、スーツのほうが良かった?」
「……どうして、そう思うの」
唐突に問われ、嶺奈は視線を逸らす。
私が良平さんの姿と重ね考えていたのは、またも亮介のことだった。
亮介と良平さんは、見た目も性格も全くタイプが異なるのに、どうしても比較してしまう自分がいるのだ。
みっともないくらいに、私はまだ亮介に対して、未練を残してる。その事実を痛感していた。
「熱烈な視線を感じるから」
綺麗な横顔で彼は言い、微笑していた。
「違っ……! そんなんじゃ」
見とれていたと勘違いをされてしまったのかもしれない。脳裏で必死に否定の言葉を探した。
けれど、次に続く言葉が見つからず、口を閉ざす。
「冗談」
「…………」
その言葉を聞いて、からかわれていたのだと、少しだけ安堵する。良平さんと居ると、何故か自身のペースを乱されてしまう。
これも、彼なりの気遣いなのか。
それとも、作戦の一つなのか。
私には分かりそうもない。
約一時間掛けてたどり着いたのは、静寂に包まれた海辺だった。
時刻はお昼前だというのに、辺りに人の気配は見当たらない。
「綺麗でしょ。俺の秘密の場所」
車を降りて、海を眺める。
穏やかに寄せては返す波を見ていると、心が洗われていくようだった。
嶺奈は返事も忘れて、ゆっくりと砂浜を歩み始めた。
砂に沈んでいくパンプスのヒールに、煩わしさを感じた。
海へ来るって知ってたら、スニーカーにしたのに。しかも、タイトスカートのせいで、余計に歩きづらい。
「靴脱いだら危ないよ。ガラス片とかあるかもしれないから」
「そうね。脱ぐのは止めておく」
いつの間にか、嶺奈の隣まで来ていた立花が、そっと彼女に声を掛ける。
「夕方になると、もっと綺麗なんだ。嶺奈が気に入ったなら、また、連れてきてあげる」
陽のある時間帯でこれほど綺麗なら、夕方はきっと想像を越えるくらいに、刹那的で綺麗に違いない。
「今日はありがとう。この場所に連れてきてくれて」
素直な気持ちが言葉となって零れた。
ずっと荒んでいた心が、癒された気がする。
しかし、立花は嶺奈とは対称的に、どこか躊躇った様子だった。そして、意を決したように口を開いた。
「……これから君は、辛い事実と向き合うことになるかもしれない。だから、これは俺からの罪滅ぼし」
「罪滅ぼしって、どういうこと?」
嶺奈にとって予想外の言葉だった。
罪滅ぼしは、罪を犯した人が使う言葉だ。
彼は私に何もしていない。
それなのに、どうしてこの言葉を使ったのか。疑問が消えない。
「今はまだ言えない」
──いずれ、分かるから。
彼の悲しそうな表情が、海辺という景色と相まって、余計に焼き付いて離れなかった。
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