第7話


「君の苦しみも、悲しみも、怒りも全て。俺が受け止める。その傷を癒してあげる──」


 彼の甘い誘いに、嶺奈は無意識に頷く。


 そして、立花に促され、嶺奈はここに至るまでの経緯を話し始めた。


 亮介に浮気されたこと。相手はすでに妊娠していること。今年中に籍を入れて、式を挙げると伝えられたこと。


 自分の口から亮介のことを言う度に、胸が酷く痛んで、見えない傷口が開いていく。


 経緯自体はきっと、ありきたりな話で、浮気話なんて、そこら辺にゴロゴロと転がっている。


 私のことも、その中の一つに過ぎない。


「将来を約束しておきながら、相手は何食わぬ顔で、君に嘘をついていたのか」


 核心を突かれ、否定する気持ちも起きなかった。


「……復讐って、具体的にはどうするの」


 これ以上は、耐えられない。心が悲鳴をあげている。


 そう思った嶺奈は、話を逸らすことにした。


「君が、彼より幸せになることだよ」


「幸せ……?」


 幸せって、なんだっけ?


 亮介と付き合っていた時、幸せを感じていたかと問われれば、答えは『否』だ。


 いつも彼の機嫌を窺って、堪えていた。


 仕事で忙しいと言われれば、連絡するのを控えていたし、デートをする時も、人混みが苦手な亮介の為に、本当は流行りのお店に行きたいのに、その気持ちをいつも我慢していた。


 最近は彼の自宅にすら、行くこともなくて、二人で会う場所は、決まって私の自宅かホテルかの二選択しかなかった。


 そこに幸せなんてものは、存在し得ない。


 なら、愛はあったのかと問われても、本当のところ、自分でもよく分からないのだ。


「俺は、その為の手引きをしてあげる」


「例えば、どんな?」


「偽装結婚とか」


「……っ! 偽装結婚って」


「もちろん、君の意見を尊重するよ。けど、このままでいいの? 彼に馬鹿にされたままで」


 立花は、きつい物言いで嶺奈を挑発した。


 これが彼の本性なのかは分からないが、気の強い嶺奈に、発破をかけるには充分だった。


「するわ。結婚。もう、何も失うものはないから」


 逡巡する暇もなく答える。


 意地を張っているように思えるが、これが嶺奈の答えで、本心だった。


 突然目の前に現れた悪魔と、契約を交わしているような気分になる。


「分かった。けど、実際には結婚しないから、そこは安心して。戸籍に傷をつけたくはないでしょ」


 彼の優しさが見え隠れする度に、少し苛立つ。


「今さら、そんな気遣いは要らない」


「これは、あくまでも、彼の感情を揺さぶる為の計画だから。俺は今日から君の婚約者になる。偽の、ね」


「ええ、分かってる」


 そう、私達は本当の婚約者にはなれない。なり得ないのだ。だから、彼は私の気持ちにあえて釘を刺して、制している。


 間違いなど、起こしてはいけない。


「さっきも言ったけど、君に手は出さない。俺の隣に居てくれるだけでいいよ」


「何もするなってこと?」


「そうだな。軽い演技くらいは期待したいかな」


「演技……」


 上辺だけの愛想を振り撒くのは慣れている。けれど、演技をすることに些か不安があるのも事実だ。


 ましてや、私が演じるのは彼の婚約者。

 

「不安なら練習してみる? 俺のこと良平って、呼んでみて」


 彼はソファから立ち上がり、嶺奈に近付いた。


 5センチの低いヒールの付いたパンプスを履いているとはいえ、彼の身長の高さに今更ながら少し驚き、見上げる。


 彼の顔を間近でしっかりと見たのは、これが初めてだった。


 清潔感のある黒髪は、彼の端整な顔立ちをさらに際立たせている。


 平行な二重目蓋を少し細めて、微笑する彼に、不覚にも少しだけ、胸が高鳴った。


「り、良平さん……」


「及第点、かな。嶺奈。改めて、よろしく」


 そう言いながらも、彼はどこか満足げな表情をしている。


 亮介以外の男性に、名前を呼び捨てにされたのに、別段と嫌な気分にはならなかった。

 

「……ええ、宜しく。良平さん」


 この不埒な感情を悟られないように、視線を逸らして、嶺奈は答えた。

 

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