第6話 動き出した激情。


「……捨てられた、か」


 立花は何かを考えるように、ぽつりと呟く。


「笑ってくれてもいいんですよ。なんだ、そんなことかって」


 自嘲気味に嶺奈が言うと、立花の眼孔が鋭くなった気がした。


「笑えないよ。だって、君は傷付いたんでしょ? だから、あの日。あんなことをしようとした。そんなことだって言えるほど、君の傷はもう癒えてるの?」


 なんで、そんなに痛いところを突いてくるの。


 癒えてなんかない。癒えてたら、こんなこと言わないし、しない。


 嶺奈は顔を歪ませ、下唇を噛む。


 油断したら、また、泣きそうだ。


「そんなに噛んでたら、血が出るよ」


「放っておいて」


「それは出来ない」


「キスの一つもしてこないあなたに、何が出来るの」


「挑発されても、キスもその先もしない」


 嶺奈の挑発に、彼は冷静さを乱すこともなく告げる。


 もう、何も言い返せなかった。


 何のために、ここに居るんだろう。

 無意識の内に、彼に絆されてた?


 そんなはずは、絶対にない。


「帰ります。やっぱり、来なければよかった」


 捨て台詞を吐き、嶺奈はソファの脇に置いていたバッグを乱暴に取ると、立ち上がって、部屋を出ようとする。


「待って」


 後ろから聞こえた彼の一言に、思わず足を止める。


「何ですか」


「その婚約者って、どんな人だった?」


 唐突な質問に、嶺奈は振り向くと、彼を見据えて答えた。


「最低な人」


「それは分かってる。そうじゃなくて……、例えば名前とか」


「名前? 名前なんて、聞いてどうするんですか。復讐でもするの」


 嶺奈は冗談混じりに言いながら自嘲する。


 復讐なんて、出来るわけない。


 亮介に復讐をしたら、私は浮気をした彼と同じ立場になってしまう。


 悲劇のヒロインじゃ、居られなくなる。


「協力するって言ったら、君はどうする?」


 けれど、彼は真剣な眼差しだった。

 愛想笑いもない。


 馬鹿にされてると分かったなら、即座に彼の頬を一発ひっぱたいてから、部屋を出ようと思っていた。


 それなのに、私は彼の危険な雰囲気に飲まれてしまったのだ。


 亮介に、一矢報いてやりたい。


 そう、思ってしまった。


「……犯罪に手を犯すかもしれないのよ」


「良いよ。君となら、俺は地獄に堕ちても構わない」


 地獄に堕ちても構わない──。


 彼の言葉が、とても魅力的で淫靡にさえ感じた。


 今日まで必死に押し留めてきた、自身の嫌な感情が堰を切ったように溢れ出す。


 激情は動き出した。もう、留めることは出来ない。


 彼は、立花良平は嶺奈のパンドラの箱を開けてしまったのだ。


「お願い。私を地獄へ連れていって」


 決意を固めた嶺奈は、不意に零れた一雫を指で払い、彼を見据えた。

 

「分かった」


 ソファから立ち上がった立花は、嶺奈にゆっくりと右手を差し出す。


 この手を取れば、もう後戻りは出来ない。


 けれど、何もせずに犬死にするくらいなら、私は最後の最後まで、みっともなく足掻きもがいて、潔く散ってやる。


 嶺奈は差し出された彼の手に触れた。

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