第5話


 あの日から、嶺奈は立花良平という彼のことが、気になり始めていた。


 別に惚れたわけではない。


 あの夜、彼は本当に手を出してはこなかった。


 そんなにも、私には魅力がないのか。

 だから、捨てられたのか。


 そんな、くだらない事ばかり考えてしまう。


 メモ用紙に書かれていた連絡先は登録した。


 けれど、自分から連絡するのは、なんだか負けを認めたような気がして、最初の一歩が踏み出せないでいた。


 もう一度だけ会って、後は忘れよう。


 長考し、嶺奈は短いメッセージを送った。



 仕事が終わり、社員証を機械にかざし、退勤する。


 週末ということもあって、周りの社員達は今から飲みに出掛けるようだ。


 嶺奈はその輪には加わらず、会社を出て、携帯を確認する。


 すると、一通のメッセージが届いていた。


 『連絡ありがとう。君が会いたいなら、俺は今日でも構わないよ』


 まさか、本当に返信されるとは思ってもなかった。


 半信半疑だったのだ。


 連絡先だって、嘘かもしれない。そう思っていたのに。


 予想外のことに戸惑いつつ、どう返信するか、逡巡しメッセージを送った。


 『あの日のホテルで』


 彼からの返信は早く、一言『分かった』とだけ書かれていた。



 ホテルに向かう道すがら、私は一体何をしているんだろうと思う。


 心が弱ってたから?

 違う。そんなんじゃない。


 必死に否定しても、足は独りでに進み、気がつけばホテルの前に到着していた。


 引き返すなら今しかない。


 けど、そうしなかったのは、少しだけ彼に会いたいと思う気持ちがあったから。


 意を決して、ホテルのロビーに足を踏み入れると、そこにはすでに彼がいた。


「あ、久し振りだね」


「お久し振りです」


 彼は携帯をスーツのポケットに仕舞うと、嶺奈にゆっくりと近づいた。


 嶺奈が少し他人行儀になってしまうのは、あの日の醜態を思い出したからだ。


 やっぱり、来なければよかったかもしれない。


 そんな考えが脳裏をよぎる。


「部屋、取ってあるけど、もう入る?」


 彼に問われ、嶺奈は手短に答える。


「ええ。お願いします」


 部屋に入ると、立花はさっそく煙草を取り出した。


「ここ、喫煙可のホテルで良かった。喫煙者は肩身が狭いから」


 紙煙草に火を灯すと、紫煙を燻らす。


「ごめん、もしかしてタバコ駄目だった?」


 嶺奈が無言なことに気付いた立花は、点けたばかりの煙草の火を揉み消そうとした。


「平気です。タバコの匂い嫌いじゃないので」


 そういえば、亮介は煙草を吸わなかった。煙を吸い込むと、咳をしてしまうと言っていたことを思い出す。


 けれど、私は煙草の独特な香りは嫌いじゃなかった。


 自分から好んで吸おうとは思わないけれど、ついその姿を眺めてしまうのだ。


「そう言ってもらえると助かる。辞めようとは思ってるんだけどね。実際にはなかなか……」


 彼は苦笑しながら、美味しそうに煙を吸っては吐き出している。


「私が聞くのもおかしいんですけど、どうして今日会ってくれたんですか」


 必ず会うという義理は彼にはないはずだ。

 自分から誘っておいて、疑問に思ってしまう。


「君が会いたいって、言ってくれたから」


 なんの疑いもなく、彼は答える。


「理由になってない」


「そう? 理由なんて、そんなものじゃない?」


 灰になり、短くなった煙草の火を灰皿で潰して消すと、彼は嶺奈を一瞥する。


「あなた、やっぱり変わってる」


「よく言われる」


 考えなしに、ここに来たせいで会話が続かない。


 嶺奈が口を閉ざすと、立花があの日のことを訊ねてきた。

 

「正直聞いてもいいのか、迷ったんだけどさ。あの日。何があったの」


 思い出したくもないことを聞かれ、目蓋を閉じる。痛いくらいの強い雨粒と、雷鳴が、鮮明に蘇る。


 何が? 婚約者に捨てられた。


 そんなことを言っても、相手を困らせてしまうだけだ。


 口をつぐみ続ける彼女に、立花は言葉を続ける。

 

「答えたくないなら、もう聞かない。けど、あんな真似、二度として欲しくないって、俺は思う」


 率直な感想に嶺奈は、乾いた唇で答えた。


「婚約者に捨てられました。だから、私にはもう何も残ってない。空っぽなんです」


 ほら。返答に困ってる。

 言わなければ良かった。


 適当に嘘を言って誤魔化せば良かった。


 なんで、馬鹿正直に答えたんだろう。

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