第3話
桂花にとって、ご飯を食べられなかったり、食堂が混雑していたから避けた場合は死活問題だった。
だからこそ、彼女は家の近くや様々な個人経営の飲食店の従業員の人たちと親密な仲を構築するように心がけていた。
「いらっしゃい」
この日も行き忘れた桂花は家の近くの喫茶店に来店すると中年の店長が笑顔で声をかけてくると──無論、彼女は聞こえない──桂花は微笑み返しながら店の奥の席に座る。
奥の座席には唯一呼び出しベルが置いてあり、マスクを付けた店員がメニューとお冷を机の上に置いて下がっていった。
さて、何を頼もうか
日替わりの欄にはお任せサンドイッチと書かれており、桂花は好奇心から頼もうと考えたが、もし万が一苦手な食材が入っていたら申し訳ないと思い、いつものセットにしようと決めた。
呼び出しベルを軽く押すとチン、と言う音が店内に響き渡り、先程の店員がやって来る。
桂花はメニュー上のナポリタンを指差し、その下のセットへと滑らした。
「お飲み物は?」
店員は伝票にペンを走らせながら彼女の顔も見ずに聞いた。
まずい。何を聞かれているのか分からない
桂花はマスクを付けているため読唇術が使えず、黙っていると店員はこちらを不審そうな顔で見つめて来る。
「飲み物は?」
やはり何を言っているか分からなかったが、これまでの経験からすぐにアイスティーを指差すと少しうんざりした様子で伝票に走らせ、写しを机の上に叩きつけてキッチンへと去っていった。背中にはっきりと赤紫の茨のような形が浮かばせながら。
肩身が狭いなあ、と桂花は思った。
でもまあ、仕方ないか
自分は耳が聞こえないという理由で特別扱いされるのが嫌だった。それだけの理由で人一倍努力して読唇術を身につけ、通常学級にも通い、理解のある友人や教師たちの協力もあって成績も平均的で、それなりの大学にも進学できた。
リスニングはマジで焦ったなあ
絶対に解けないと分かっているこの壁は勘とその大学の過去問から傾向を予測したりとしたが、結局は運が良くてリスニングはギリギリの点数だった。
そして現在は教授にそのことを伝え、録画した授業内容に字幕を付けてもらって家で復習したり通学中に見たりして追いついている。
今年からその教授が授業でスライドショーを使うようになったのは出席している桂花が周りに溶け込めるようにという采配でもあった。
そんなことをひとり思い出し、フッと笑いながら待っているといい匂いが鼻先を掠める。
そろそろかな
キッチンを見ると採れたてのオレンジの果汁のように明るい色が漏れ出ており、カウンター近くで待機しているマスクを付けた店員もそれに触れ、茨も次第に薄れていくのを見た彼女は和んだ。
こういう光景だけが見れるなら、邪魔じゃないのにな──
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