情報の整理② 同じ動作の表現を連続させない

 物語を書いていると、登場人物の感情が高ぶったり、ポジティブなものにせよネガティブなものにせよ、何かの感情で頭がいっぱいになったりする場面を描くこともあると思います。

 文章チェックの観点から注意を払いたいのは、同じ動作の表現を連続させないことです。


 私たちは家族や友人、恋人などと楽しくおしゃべりするとき、「私はあなたとあなたの話に興味を持ってますよ」というメッセージを込めた優しくひかえめな笑みを浮かべて、相槌あいづちを打ったり、声を立てて笑ったりしていると思います。

 表情がとぼしく見える人でも、目元や口元に笑みを浮かべることで、友好関係を今後も続けていきたいという意思表示をしているはずです。

 ただし、それを小説で、特に会話が長い場面で再現しようとすると、登場人物みんなが事あるごとにうんうんと頷いたり、笑い声を上げたり、目線で話の続きを促したりしまくることになります。


 ここまで読んで、「そんなことある?」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、どうやらこれは割と普遍的な悩みのようです。

 タカノンノさんのマンガ『ショートショートショートさん』にも、創作活動を趣味とする主人公が、自作の登場人物たちが「肩をすくめて」ばかりにいると気付いて自己嫌悪におちいる話があります。


 油断していると繰り返しがちな言葉としては他にも、「目を細める(=笑う)」、「笑みがこぼれる」、「眉間にしわを寄せる」、「不機嫌そうな顔をする」、「悲しそうな顔をする」、「涙を流す」、「はしゃぐ」、「茶化す」、「胸を張る」、「自慢気だ」、「驚く」、「目を丸くする」、「神妙な顔をする」、「困ったように」、「苦笑いする」などが考えられますね。

 この辺りの動作・仕草は、日常生活にありふれているというか、リアリティを追求する書き手さんほど何度も使いたくなる表現だと思います。


 しかし、客観的に言うなら、同じ動作の描写が何度も繰り返されると、表現として淡泊たんぱく間延まのびした印象になりますし、読者も飽きてしまいます。

 場面として連続していなくても、何度も同じ表現が出てくれば気になるというか、「この書き手さん、『○○』って表現好きなんだな」くらいのことは思ってしまうものです。


 こういう場合、語彙ごいや言い方のレパートリーを増やしたいと考える書き手さんが多いようですが、私は少し違う考えです。

 文章チェックというより創作自体や作風の問題になってきますが、そもそも小説というものは、何でも詳細に書けばリアルになるわけではありませんし、リアルでさえあれば良いわけでもありません。

 語る内容だけでなく語り方にも目的や意味があるように、何を書き、何を書かないかということにも意味があります。

 このとき、ひとつの基準になるのが「ドラマ性」です。

 つまり、「登場人物たちの感情や関係性のを示すのに必要かどうか」という基準で情報を仕分けして、無くても構わない情報は思い切ってカットするわけです。

 同じ動作を繰り返しているということは、「登場人物の感情や関係性がさほど動いていないのに、動作の描写だけ入れてしまっている」可能性が高いので、それを優先的に削っていきます。


 考えてみますと、欧米ではおしゃべりの最中にジェスチャーをするのが一般的と聞きますが、どの小説でも会話の度にその詳細が書かれるようなことはありません。

 わざわざ書かれていなくても、楽しくおしゃべりしていることが伝われば、読者が脳内でイメージを補完してくれると見込んでのことでしょう。

 その事情は日本でも同じで、表情について何も書かれずに台詞のやり取りだけが続いたとしても、「笑顔の描写がないってことは、この人たち、無感情な仏頂面でおしゃべりしているの?」と思う読者なんていないわけです。


 このことは笑顔や笑い声だけでなく、喜怒哀楽や他の感情の表現についても言えます。

「あの人が死んだ。俺はこれからどうやって生きていけばいいんだ……」

 という台詞が書かれているのに、ほがらかに言っていると想像する読者はいないわけですから、「苦しそうに」とか「悲しみに暮れた様子で」とか、実は書かなくていいんです。

 いや、もちろん書いても良いのですが、かなり強い感情の表現という印象になりますね。

 もしこの後、話している間にどんどん悲しみが深まっていくような展開があるなら、ちょっとくどくなる可能性もあるので、注意が必要です。


 さて、それでも削り切れない場合やそのときの言動を強調したい場合の対処法としては、どこかのタイミングでまとめて言及するアプローチが考えられます。

「Aさんとの話はいつも楽しい。周りの人がびっくりするのも気にせず、大きな声で笑ってしまう」

 などの記述を会話の直前あるいは直後に入れれば、いちいち「(私は)笑った」、「笑い声をあげてしまった」などと書かなくて済みます。


 手元にないので引用できませんが、サマセット・モーム『月と六ペンス』にもこの手法が使われています。

 ある人物が長い話を始める前の地の文に、「彼は話し下手で、的確な言葉が浮かばずに口ごもることも多かった」とか、「所々で声がかすれて聞き取りづらかった」といったことが書かれています。

 これによって、発言者を話し下手にしつつ、小説としての読みやすさを実現しています。

 私たちは日常会話で言い間違えをしたり、言い淀んで「あー」、「えーっと」と唸ったりしますが、これを忠実に文字にしてしまうと、非常に読みづらく、発言者が優柔不断で、知性を感じにくい印象になります。

 もちろん、これを狙って書かれた小説(三崎亜記『となり町戦争』など)もあるので、興味のある方はご覧になってみてください。


 動作や仕草についての言及を会話の途中に入れる場合、継続を示唆する表現を用いるのが良いと思います。

「私はさっきからずっと笑ってしまっている」

「私が笑い声を立てるたび、周りの人たちがびっくりしているが、それも気にならない」

 などですね。


 個別の場面に限らず、作品全体として動作や仕草の表現がワンパターンになる場合は、キャラクターが初めて登場したときの紹介に、そういう人だと(よく笑う人だとか、考え事をするときにあごを触りがちだとか)書いてしまうのも1つの手でしょう。

 他にも、そのキャラ特有の仕草に言及したり、少し語彙力が必要かもしれませんが、そのキャラにしか使わない表現を用意したりする方法もあります。

 『ハリー・ポッター』シリーズでは、ムーディという人物が発言するとき「うなった」、「えた」などの動物的な表現が使われています。

 これらの表現は何度か繰り返されるのですが、ムーディの人物像を表現する効果があるので、淡泊というより様式美に近いものとして受け入れることが出来ます。


 以上、長々と述べてきましたが、一言でまとめるなら、やはり情報の整理が肝心だ、ということになるでしょう。

 それぞれの場面で何を伝えたいのか、どんな感情の動き、関係性の変化を描きたいのか、どの情報にどれくらいの重みを持たせるべきか、書かなくても伝わることは何か、書かなくても伝わりはするがあえて書くべきことは何か。

 そういったことを念頭に文章チェックをしていけば、同じ動作の表現を連続させてしまう事態はある程度回避できるはずです。

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