主語と述語④ 切り替え


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 道がつづら折りになって、いよいよ天城峠あまぎとうげに近づいたと思う頃、雨脚あまあしが杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さでふもとから私を追って来た。

(川端康成『伊豆の踊子』、冒頭)

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 川端康成の文章力が高いので、何の違和感もなく、美しい文章として読めてしまいますが、文法的に解釈すると、なかなか切り替わりが激しい1文です。

 主語と述語の対応を念頭に、順に見ていくと、

(A)「道が」「つづら折りになって」「近づいた」と、

(B)私(=語り手)が「思う」頃、

(C)「雨脚が」「染めながら」「追って来た」

 という3つのまとまりがあります。


「天城峠に近づいたのは『道』じゃなくて『私』じゃない?」

 と思われる方もいらっしゃるかもしれませんし、意味的にはそうなのですが、文法的には『道』です。

 1文の中で主語が持続したり切り替わったりする場合、いくつかの規則があります。

 用言(a)の連用形(「~して」の形)が、別の主語をはさまずに、連体形でない別の用言(b)につながる場合、基本的に主語は変わりません。


 たとえば、「彼女は健気けなげで、美しい。」という1文の場合、(a)「健気で」が形容動詞の連用形、(b)「美しい」が形容詞の終止形なので、主語は変わりません。

 これが仮に「彼女は健気で、美しいものを好む。」の場合、(b)「美しい」が連体形で「もの」に係っているので、「彼女は」に対応する述語は(a)「健気で」(c)「好む」の2つです。また、「彼女は、健気で美しいものを好む。」の場合、(a)「健気で」はそもそも主語「彼女は」に対応する述語ではありません。


 もちろん例外もありますが、とりあえずのところ、「道が」「つづら折りになって」の後、主語は変わらず「道が」「いよいよ天城峠に近付いた」と解釈できます。


 ただ、このような、主語の持続と切り替えのルールなんてものは、理屈で言おうとするから難しく見えるだけで、日本語ネイティブのかたの多くは感覚的に理解しているものです。

 仮に自信が持てないにしても、重要なのは個々のルールを頭にたたき込むことではありません。

 1文の中にいくつかの用言を書くとき、その主語がどうなっているかをチェックして、分かりづらいと感じれば(多少くどくなっても)主語を明記する、と心掛ける方がよほど建設的です。


 ちなみに、ここで主語が「道」ではなく「道」である理由は、以前の記事で紹介した格助詞「は」と「が」の使い分けを思い出せば、お分かりいただけますね。


(3)主格がどこまでかかる(=つながる)のか、文末まで係るのか、節の中だけにしか係らないのか。


 という話です。

 「道が」は、動詞「近づいた」で終わる節の中でしか、主語として機能しません。

 そのため、「は」ではなく「が」が使われています。

 ご自身の文章をチェックする際にも、1文が長くなった場合はひとまず、途中で主語が切り替わっていることを疑って、主格の助詞と述語の対応を確認してみてください。


 さて、引用部分「(私が)……と思う頃」は、主語の切り替わりを予感させる箇所です。

 下手な書き方をすると、新たな主語が分かりにくい文章になってしまいます。

 ですが、直後に新たな主語「雨脚が」が来ることで、そんな危うさを一切感じさせない構造になっています。


 雨が降り始めたことは、今までに予告のなかった新しい情報です。

 「は」と「が」の使い分けで言えば、「(1)新情報か旧情報か」という観点で判断して、「雨脚」となります。


 * * *


 ところで、少し脇道にれますが、ここまで取り上げてきた『伊豆の踊子』の冒頭1文は、おそらく近年ではあまり見られなくなった、日本的な味わいを感じさせる表現です。

 仮に近年のベストセラー作家が同じ内容を書こうとしても、その多くは、「曲がりくねった道を歩き続けて、天城峠の間近まで来たとき、雨が降り始めた」くらいの表現にしかならないと思います。

 というのも、最近はそういう、「分かりやすい」小説しか売れなくなっているからです。


 Web小説でも、細々こまごました情景描写は敬遠されがちですし、書き手さんご自身が軽視していない場合も、文字数がふくらみ過ぎるのを避けるために割愛されがちです。

 実際、小説を読んでもらうためには、想定する読者層に合わせた書き方を選ぶことが重要です。

 とりあえず昔の文豪を真似ればよい、という話にはなりません。


 ですが、ここではあえて、川端康成のセンスの良さ、技術力の高さ、観察眼の鋭さに注目してみましょう。

 単に「雨が降り始めた」で済ませそうになるところを、「雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さでふもとから私を追って来た」と描写しています。


 ここでのポイントは、雨を擬人化していることではなく、詩的でありながら無駄がないスマートな表現に徹していることです。

 私のように凡庸な人間の発想力では、詩的な表現と言われると、

「天に向かって高く伸びる木々」

「真珠のように白く」

「急き立てるように慌ただしく」

 など、比喩が多いだけの言い方をしそうになってしまいますが、川端康成の1文には、そういう気負いやわざとらしさがありません。


 さらに言えば、「私は歩いていた」「私が雨に降られた」という自分中心の語り口ではなく、最初に「道」、「雨脚」、「杉の密林」に目を向けていることも重要です。

 自然や世界に対する「私」の眼差しをさりげなく示し、読者に伊豆の風景とその美しさを想像させる作りになっています。


 これこそが美しい日本語であり、文学的な表現だと思います。


 * * *


 川端康成への称賛が長くなりましたが、ともかく私がここでお伝えしたいのは、1文の中で主語を切り替える場合には、新たな主語をなるべく早い段階で示すことが肝要だということです。


 せっかくですから、他の例も見てみましょうか。


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 死んだはずのぼくのたましいが、ゆるゆるとどこか暗いところへ流されていると、いきなり見ず知らずの天使が行く手をさえぎって、

「おめでとうございます、抽選に当たりました!」

 と、まさに天使の笑顔を作った。

(森絵都『カラフル』、冒頭)

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 紙の本にしても長い1文で、情報量も多いですが、構造がすっきりしているので、難しくはないと思います。

 まずは「(ぼくの)魂が」が主語、「流されている」が述語であり、「流されていると」で切り替わります。

 直後、「いきなり」「見ず知らずの」と来るので、読者としては「おや?」と思いますが、これは単に分かりにくいのではなく、主人公の戸惑いを読者が共有するための仕掛けです(ちゃんとそういう言葉が選ばれています)。 

 その後は一切の無駄なく、新たな主語「天使が」が登場します。

 構造が分かりやすく、長くても読みやすい1文になっています。


 このように、1文の中で主語を切り替える際には、新たな主語を分かりやすくする気配りが、読みやすさを大きく左右しますので、ご注意ください。

 私も気を付けます。

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