第31話 天沢和尚
翌日、旅の疲れを癒す為、あおいは信長の湯殿を借りてのんびりしていた。
風呂から上がり、いつもの様に手拭を首から垂らした姿で、湯殿からの帰り通の中庭を歩いた。腰まであった髪の毛は、此度の旅の邪魔になり、肩の下辺りまで切り揃えたので、以前に比べ、随分と手入れが楽である。
自室で昼寝をしている智香を置いて、一人で中庭を歩いていると、赤ん坊の叫び声が聞こえた。あおいは足を止め、恐る恐る、声のする方を振り向いた。するとそこには、遥の胸に抱かれ、喃語を喋る奇妙丸と、帰蝶、お腹を摩りながら、奇妙丸を眺める吉乃、外廊下に腰を下ろして庭の四人を微笑ましく見守る信長の姿があった。
愛くるしく、すくすく育っている我が子の姿を見た瞬間、とてつもない喪失感に襲われた。
ーなぜ、奇妙丸を抱いているのは、わたしじゃないのー
額に手を当て、激しくなる呼吸と戦った。
「お嬢ちゃん」
その時、背後から肩をやさしく叩かれた。もう一度、お嬢ちゃんといわれ、はっと、身体が反応し、漸く我に返った。
「誰ですか?」
振り返ると、あおいの胸の高さの身長しかない袈裟姿の和尚が立っていた。しわくちゃの顔を余計、しわくちゃにして目を細めている。
「わしは天沢和尚じゃ。一切経(仏教聖典の全て)を二度も呼んだ、えっらーいお坊さんである」
「へえ?」
あおいは、きょとんと首を傾げている。
「こんな者もおる」
後ろ手にしていた手を前に回すと、その手には犬が抱かれていた。
「ああ、あの時の仔犬」
あおいは、すぐにその犬を抱き上げた。
「大きくなったわね」
前に城に迷い込んだ時は仔犬だったのに、いまでは両腕に抱えるのがやっとである。犬の頭に頬を寄せて、何度も頬ずりをした。
「我が子の代わりにはならんと思うが、気休めになることじゃろう」
和尚は後ろに手を組んで歩き出した。
「和尚さん、どこに行かれるの?」
「お嬢ちゃんの家」
「ええ?」
居室の縁側に天沢和尚は座ったが、足が短くてぶらぶらと足を揺らしていた。その姿が可笑しくて、あおいは思わず笑ってしまっている。
「漬けた沢庵と、麦湯でございます」
盆ごと差し出すと、和尚は麦湯を一気に飲んだ。四回程、麦湯を入れ直し、やっと喉の渇きの治まった和尚は、ゆっくり話し出した。
「ここに着く少し前まで甲斐の国に行っておったんじゃ。すると、そこの役人がのう、武田信玄公に挨拶してお行きなさいというものだから」
「武田信玄?ほう」
とあおいは頷いた。ふと犬を見ると、座敷の板敷が心地良いのか、スヤスヤと眠っている。
「ほんで、信玄公に挨拶に参ったのじゃ。信玄から、和尚はどちらからと聞かれたゆえ、尾張の国の者ですと答えたら、何郡かと聞きよる、ほんで信長公の居城清州から五十町東(約5.5キロ)春日井のはずれ、味鏡(名古屋市北区)という村の天永寺の住持をしておると申した」
「ほうほう、ほんで?」
あおいは興味深い話だと、身を乗り出して聞いていた。
「信長公のご様子をありのままに話してと良いといわれたゆえ、ありのままに話した」
「ありのまま」
「信長公は朝晩、馬の調練をなさいます。ほんで、鉄砲の練習をなさいます。ほんで、弓の稽古をなさいます。ほんで、しばしば鷹狩りをなさいます。すると、他に趣味はないのかとしつこく聞いてくるゆえ」
「ほんで?」
「舞と小唄と申したら、師匠はだれかと聞いてくるゆえ、清州の町人で夕閑という者をしばしば召し寄せて、お舞になりますと申した」
「殿は熱盛がお好きですものね」
「ほんでよ、幸若舞の熱盛を一番しかお舞になりませんと伝えたら変わり者だと申す」
「まあ、確かに変わり者かも知れませんね」
あおいは、沢庵を口に含むとぽりぽり音を出して食べ、麦湯をずずずと啜った。
「ほんで、信長公の舞を真似て見せよと信玄公が無理をいい出して」
和尚は眉をひそめて、かわいく唇を蕾めた。あおいも真似る様に唇を蕾んでから、
「和尚さんは出家の身ですし殿の舞の真似なんて出来ませんよね」
「んんや、真似た」
「まっ真似たのですか」
肩透かしを食らったように、あおいは、片手を床に落とした。そこに
「儂の真似をして幸若舞を舞ったとは初耳じゃ」
「おほほほほ、久しぶりじゃな吉法師」
信長を幼名の吉法師と呼んで、和尚は茶を啜った。犬は首を上げ、信長を一瞥し、すぐにまた眠りについた。
「何か御用で」
あおいは庭を見ながら茶を啜っていた。
「随分ないいようだな」
信長が大きく溜息をついた。
「まあまあ」
和尚は縁側から庭に飛び降り、こちらを向いた、背が低いので上半身しか見えない。
「どちらも肩の力を抜きなされ、何故にいがみ合う。互いが互いを必要としておるのに」
「必要など、少なくても殿には、その気持ちは御座いません」
あおいは、そう言い放つと、茶碗を持つ手を膝に置き、信長を睨むように見た。
「この方は、わたしから実の子を奪ったのです」
「和尚、こういうことだ。外見は繕っても。心の底ではわしを怨んでいる。恨み続けると、そう申しておる」
信長の目が赤く充血して行く。
「まあまあ」
和尚は小さく手を振った。
「お嬢ちゃん、お嬢ちゃんの気持ちはわかるが、男という者は色を好む者。いちいち嫉妬していたら身が持たん」
「嫉妬などしておりません、お子を奪われたと申しておるのです」
俯いた目から涙が落ち、その雫が茶碗に入った。
「ほーら、愛が欲しい、愛が欲しいと泣いておる」
和尚は、「また来る」と、手を上げて去って行った。残されたふたりは黙っていた。あおいは湯飲みの中を見ている。信長は寝ている犬を撫でていた。
「奇妙丸に会いたいか?」
あおいは黙っていた。
「わかった」
信長は腰に差していた扇を取り出すと、それを勢いよく広げた。
「あの禿坊主、変な踊りをしよって。敦盛はな、こうやって舞うのだ」
「え?」
「なっなにをなさるのですか」
「滅多に見られるものではない」
信長はいい、幸若舞の熱盛を舞い、続けて小唄「死のふは一定云々」を歌った。
幸若舞ー熱盛
人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり、一度生を受け、滅せぬ者のあるべきか
ー人の人生は五十年、仏教でいう下楽天の時間に換算すれば、夢か幻のように、短く儚いものだー
死のふは一定
死のふは一定、しのび草には何をしよぞ、一定、語りおこすよの
ー死は必ず訪れる。死後、わたしを思い出して貰うよすがとして何をしておこうか。きっとそれを頼りに思い出を語ってくれるだろうー
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