第30話 一城の主たる者
「出掛けるぞ!」
朝も明けきらない早朝、信長は突然、部屋に来ると、あおいにそう伝えた。
顔を洗い、歯を磨いて、朝の身支度を整えている最中の事である。
「出掛けるのですか?」
「ああ。お前も」
「突然、そんな事を言われても」
「早く旅支度をしろ」
「旅?」
「そうだ」
信長は長持ちを勝手に開けると、あおいの着替えを選び、それを良之に渡した。
「さあ、智香も自室に戻り、支度をするのだ。長旅になるからな」
急いで自室に戻る智香を目で追ってから、あおいは信長の横に座った。
「旅って、どちらに?」
「京、奈良、堺じゃ」
「京、奈良、堺で御座りますか?歩いて?」
「ばかな」
信長は立ち上がり、手に取った小袖をあおいの頭に被せた。
「馬に決まってじゃないか。幸い、お前も智香も乗馬が得意ゆえ楽なものだ。他に八十名程が同行する。案ずるな、お前と智香以外に女はいない」
「わたしと智香の他に女がいないのが、どうしてわたしの懸念となるのですか、意味がわからない」
あおいは、指を額に置いて首を振った。そして小さく吐息を吐いた。
「旅とか、そんな気分ではないのです。あの様な事があったではないですか」
信行の殺害を示唆している。信長は床に座りなおした。
「お前がいる前での、信行の成敗は全く想像はしていなかったのだ。しかし、あの機会を逃す事は出来ぬ。信行は、儂の暗殺を画策しておった。それは周知の事実だ。わかるな」
あおいは何も答えなかった。この時代において、自分を殺そうとした人物を、一度でも許す事は通常では考えられない。信行が兄を二度も殺そうとしていたのなら、あの日の出来事は理解を示せる。そうしなければ、自分がやられるのだから。ただ、信行を操っていたと見られる母、土田御前の事は全く理解ができない。そして母親に二度も殺されかけた信長の心の傷は計り知れないだろうと思っていた。
「わかりました。殿がそう仰せになられるのなら、同行致しましょう」
その言葉を聞いて、信長は笑顔を見せた。久しぶりに見る信長の笑顔には、未だ少年の初々しさが残っていた。
そしてこの時が信長にとって初の上洛となる。
晴れの舞台となる上洛の為、信長は装いを凝らし、金銀飾りの太刀を差していた。お供の衆も皆、金銀飾りの刀を差している。僅か八十名程ではあったが、通り過ぎる者、皆振り返り、感嘆の声を上げた。
先ずは奈良、堺を見物し入京すると、信長は将軍足利義輝に謁見した。
そして、この旅で、あおいがとても驚いたのが、小橋孝一が京都から交わると、佐脇良之から聞いたことだ。
「まさか八十人の中に孝一が含まれているとは」
数日間、滞在するという京の宿に到着した。今回は上京室町通りの裏辻の宿に宿泊する事になった。
この旅の部屋割りは、あおいと智香は一部屋ずつ。良之と馬廻衆は同部屋。信長の部屋は、あおいの隣にあったが大概、襖続きのものだった。
襖は挟んではいたが、軽い咳でも聞こえる程度の大きさの部屋が多い。信長は寝つきが良い方で、一旦睡眠に入ると、殆ど寝返りも打たず、寝息も静かな物である。
これまでの数日間で、ふたりの中の蟠りは消えた訳ではなかった。旅も終盤となったいまでも、ぎこちなさはそのままである。
「孝一とは、くれぐれもお話などなさらない様にと、良之にしつこく言われたわ」
長持ちから、小物類を取り出しながら、あおいはそういった。この後、食事をして風呂に入る予定だ。時間に厳しい信長を怒らせない様にと、智香があおいの身支度を手伝ってくれている。
「孝一の為にも、その方がいいかもね。それより早く支度しないと、また怒られるよ、あおい」
「殿は何かと細かいから」
髪の毛を櫛でときながら、あおいはいった。昨日の事である、夕食の席に遅れて来たあおいを、信長は家臣団の前で叱責した。わざわざ人前で怒らなくてもと、いまでも不愉快に思っている。
「兎にも角にも」とふたりは駆け足で広間に向かった。
宿の女中が、座敷の襖を開けると、中は騒然としていた。
信長の周りを数名の家臣が囲み、そこだけが神妙である。あおいの存在に気が付いた良之は慌てて歩み寄り、上座に座る信長の左隣に案内した。男たちの中にひとりポツンと置かれても居心地が悪く、隙間を見つけて抜け出そうと考えていたら、なんと信長の右横に片膝を着いて、孝一が座っていた。不意を突かれたように驚いたあおいは、目を大きく開いた。その姿を捉えた良之は、あおいの目を真っすぐに見て、首を大きく横に振った。
智香に孝一の事を伝えたくて首を伸ばして探したが、智香の姿は確認できなかった。仕方ない、肩を落として黙っていたら、彼らの話の内容が耳に入って来た。
「志那の渡し(琵琶湖、滋賀県草津市)で奴らが乗った船に同席しました。ひとかどの人物が五~六人、合わせて三十人ばかりで御座ります」
こう説明しているのは孝一である。あおいには一切、目をくれず、慎重な面持ちで信長に向かっている。
「して、会話はしたのか?」
信長が聞いた。信長は片膝を上げ、そこに腕を置いて孝一の話を聞いている。
「どこの国の者かと尋ねられたので、三河の者と答えました。尾張の国を通って来たが、信長公の威勢は素晴らしく、人々は規律正しく暮らしている。ゆえ、私も自重して来ましたと伝えました」
「奴らはなんと?」
信長は腕組みをして首をまわした。
「上総介(信長)の運も、そう長くはないぞと」
孝一は躊躇せずに、そういった。信長は軽く頷いているが、怒りの感情が透けて見える。
「奴らは如何にも人目を忍ぶ姿であったので、奴らが泊まった宿の近くに宿を取り、一行の中でも小利口そうな侍を手なずけ、奴らの動向、目的を聞き出しまして御座ります」
「良くやった。続けろ」
「其方らは湯治にでも行くのかと聞きましたら、湯治ではなく、美濃の国からの御用で、上総介殿を討ち取る為に上洛したと申しました。奴らの名も聞き出して御座ります」
孝一は胸元から書物を取り出し、両手で丁寧に信長に渡した。
「夜、共の衆に紛れ込み、主だった人物に近づき、話を盗み聞きしたところ、将軍の御決心さえあれば、その宿の者に命令し、鉄砲で撃てば、何の面倒もないと。私は翌朝、先回りし、京の入り口で見張っていたら、夜になってから奴らも京に着き、二条の蛸薬師近くに宿を取りまして御座ります。その宿の左右の門柱を削り目印を付けました」
「奴らの宿を見極めておいたのだな」
孝一から受け取った書物を良之に手渡し、信長はそういった。
「はい、二条蛸薬師近くの宿に、全員一緒に入っております」
信長は暫く目を瞑っていた。そして誰も予想していなかった事を言い出した。
「その美濃衆を、小橋が見知っているのなら、早朝、その宿に行ってみよう」
「討ち入りで?」
誰かともなくそう発した。
「いや、奴らと話したい」
宿の部屋からは小さな庭が眺められた。角部屋の信長は廊下に出ていた。風呂から上がったあおいが部屋に戻り、髪の毛をとかしていると、信長から声が掛かった。
「少し、表に出て来ないか?」
あおいは濡れた髪の毛を頭の天辺まで持って行き、櫛で留めると、雫がしたたり落ちてもいい様に、手拭を首に巻いて、廊下に出た。
「どうかなさりましたか?」
信長の隣に正座して座り、夜の庭を眺めた。夜風が濡れた髪の毛を冷やしたので、あおいは、首の手拭をマフラーの様に巻き付けた。
「無理に付き合わせて悪かったな」
「いいえ」
旅の事をいっているのだろうと思った。この数日間、一緒にいたのに、殆どといっていい程、口を聞いていない。一体、信長は関係の修復を願っているのか、それさえわからなくなっていた。
「寒いのか」
首に巻いた手拭が面白かったのか、信長は百姓の様だと笑った。笑った後、俯いて、膝の上で揃えていた、あおいの手を握った。
「わしは、お前の事を怒らせてばかりいるが、しかしどうしてお前はそこまで意固地になるのか、正直いって理解ができぬ。この世が、もう少し穏やかであったのなら、お前を理解する時間も作れたのであろうが、いまは、とても、その様な時間を設けられぬのが実情だ。悪いがもう少し、いや、あと数年は我慢してくれないか」
ふたりは視線を外さないで、じっと見つめ合っていた。
「わたしなんか気になさらないでいいのですよ。殿は殿の思う様に生きられたら良いと思います。わたしなんて捨て置いて下さい」
「それがお前の心の声か?」
あおはゆっくり首を振った。
「理解し合える日が来るとは思えないのです。わたしは我儘だから」
「あおい」
信長は言葉をためて数秒、目を閉じた。
「これからもお前と一緒にいたいと思っておる。愛という言葉は恥ずかしいが、その様なものの様な気がする、かな」
といって口を噤んだ。
あおいは信長の口に指を当てて、「大丈夫」といい彼の肩に頭を置いた。
明日、命を懸けた賭けに出る信長へ、多くの言葉は必要ないと思ったからだ。
早朝、信長は美濃衆が潜む例の宿に向かった。佐脇良之と孝一が宿の裏口に周り、そこから信長を導き入れた。そして美濃衆と顔見知りの孝一がひとり、彼らと面会した。
「昨夜、其処らが上洛した事を信長公はご存じである」
孝一の言葉に、男らは顔色を変え、白目を向いて怒り出した。
「貴様、図ったか!」
「織田の間者か!」
次々罵声を浴びせられたが、孝一は怯まなかった。楽に胡坐を搔き、両手を広げて彼らを制止した。
「まあまあ、落ち着きなされ。ここは相談だが、其処らが信長公に、挨拶に参られよ」
「なっ何を申す」
美濃衆の中でも、首謀者と見られる、その男は刀の柄から手を放し、膝から崩れる様に尻を着いた。
「それが寛容かも知れぬな。生きて帰れる道はもう他にないのだから」
その日信長は、宿泊している宿に帰り、翌日、あおいや智香も連れて立売(京都市上京区)から小川表(上京室町通り)の見物に出掛けた。小川表には役所、寺院、呉服店が立ち並び、その雅な成り立ちに、あおいも智香も興奮していた。
ひと際大きな呉服屋の手前を通りかかった時、美濃衆の主要な者六人と出会った。昨日、立売に来るようにと、孝一が日時を教えておいたのだ。
美濃衆に目を止めた孝一が、信長の耳元に囁きかけた。すると美濃衆の中の一人が前へ出て、信長に深々と頭を下げた。
「お前たちは、この上総介を討つために上洛したのだな、聞いておる。未熟者の分際で信長を付け狙うとは、かまきりが鎌を振り上げて馬車に立ち向かう様なものだ。出来るものか。それとも、ここでやってみようか?」
矢継ぎ早に詰問され、六人は口を開く事も出来ず、早々に撤退した。この様子を見ていた京の町衆は、信長の言動を二通りに評した。
「一城の主の言葉には似つかわしくない」
という者もあれば、
「まだ若いが、武士にふさわしい」
という者もいた。
「彼らが美濃衆ですか?」
あおいが聞くと、信長は答えず、ただただ微笑んでいた。昨日早朝、出掛けたと思ったら割と直ぐに戻って来た信長に、美濃衆の事を聞き出す事が出来なかった。聞ける雰囲気でなかったからだ。そして今日を迎えた。
ふと孝一の背中が目に入った。一昨日の夜から信長の警護と、案内役として付き添っていた孝一の背中は、大仕事を無事に終えた安堵の落ち着きがあった。
数日の京都観光の後、守山(滋賀県守山市)を通って、真夜中のうちにあおいたちは清州へ帰城した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます