第29話 三角関係
清洲城城下、侍長屋の一角に、孝一は住んでいた。
僅か四畳半に、小さな水屋があるだけの質素な造りだが、建物は新築だったし、当主である信長が極端な綺麗好きだった事もあり、長屋を囲む全体が整理整頓され、ごみひとつ落ちていなかった。それは各個人も例外ではなく、厳しく統制されていた。ここの暮らしは、彼にとって快適だった。
「孝一いる?」
部屋の縁側に座り、刀を手入れをしていた孝一を訪ねたのは遥だった。
「なんだ遥か珍しい。若君はいいのか?」
孝一は振り返らずにいった。遥は座敷には上がらず、土間に腰掛けていた。垂髪を一束にし、くるくると指に巻いて天辺まで持っていくと、櫛を差して留めた。
「いま寝てるから。だんだん乳離れもしてきたしね。離乳食も食べてるのよ」
「かわいいだろう?」
「可愛いわね。ただ乳母はわたしだけじゃないのよ」
「そうなのか」
孝一は刀を置いて、振り返った。
「そうよ、わたしの他にもう一人、年増がいるわ」
「年増がもう一人?」
「違うわよ、わたしの他に、年増がいるっていったの」
「あー、そう」
もうどうでもいいわと、遥はうなじを搔いた。
「それで、なんか様か?」
「用事て程のもんでもないんだけどね、あおいの事で変な噂を聞いたから」
「なんだって」
「あおい、もう子供できないみたいよ」
「どういう意味?」
孝一は、四つん這いになり、遥に寄った。
「あの子、もの凄い難産でね、胎盤を掻きだそうとする時に子宮を傷つけちゃったらしいのよ、それで二度と子は授からない身体になったの」
「いい加減な事をいうなよ」
「いい加減なんかじゃないわよ」
遥はパチンと孝一の頬を叩き、自分の着物の襟を、指で後ろにしごいた。
「その時に担当した産婆は助かったけど、医者は成敗されたと聞いたわ」
「信長にか」
「そりゃあ、そうでしょう。他に誰が殺すのよ」
遥は頭の天辺の櫛を外し、垂れた髪を指先で丸めて遊んでいる。
「医者を斬った後、柱の陰で背中を丸めて泣いてたらしいよ、信長」
「誰から聞いた?」
「奥方様よ。侍女の志保が偶然、目撃したらしいの。だから聞き伝え」
「そのこと、あおいは知ってるのか?」
「知る訳ないじゃない。ずっと引きこもってるんだから。だけどね」
遥は急に真面目な顔をし、孝一に向いた。
「城内には、あおいを敵視する女が多いからね、あおいの耳に入るのも時間の問題だと思うよ。しかも昨日、弟の信行を殺す場所にあおいが居合わせてたらしいから、あおいのショックも去ることながら、母親の土田御前からは恨まれること間違いないわね」
「そんな事があったのか」
孝一は髪の毛を掻いた。
「お前、なんでそれを俺に?」
「さあ、なんでだろう?」
遥は立って、孝一を見下ろした。以前より大分痩せたようである。頬がこけてるせいか、老けて見えた。
帰ろうと、敷居を跨ごうとする遥に、
「お前は大丈夫なのか?」
「え?」といって遥は振り向いた。
「身体、とか?」
「付録のように付け足さないでよ」
遥は照れたように黒目を泳がせた。
「じゃあ、またね孝一」
表に出た遥は、後ろ姿のまま、顔を少し孝一に傾けた。
「ありがとう」
それだけいうと、足早に去って行った。
その頃、あおいは中庭にある池の鯉に餌を撒いていた。石橋に腰を落とし、無数の鯉が餌を貪る姿を、無言で眺めている。智香は少し離れた場所からその光景を見ていた。信行の殺害を、智香には話していなかった。口にする事を躊躇う程、恐ろしい体験だったからだ。智香に話したら、きっと怯えて、トイレにも行けなくなる。
以前、神社の境内で良之が男を斬り殺した事があったが、今回は顔見知りである信行の殺害であり、狭い部屋で行われたものだから、恐怖の度合が違う。
信行の死を確認した信長は、気を失ったあおいを抱いて部屋まで連れて来た。
それを見た智香は仰天し、信長にいわれるがままに布団を敷いたのだが、信長の頬や胸元、あおいの小袖にも血が付着していたので、何か恐ろしい事が起きたのだと察していた。
信長は、血の付いたあおいの小袖を脱がせ、浴衣に着替えさせると、掛け布団を肩まで掛けた。
暫くそのまま、あおいの寝顔を見ていたが、良之に呼ばれ、部屋を後にした。
人が近づいて来るのがわかった。信長ではない。足音が丁寧だ。あおいは、ゆっくり振り向いた。
「良之」
あおいに向かって歩いてくる良之の表情は悲しかった。元々眉尻が下がっているので、少しでも眉間を寄せると泣き顔の様になる。
「お方様」
良之は無理にでも微笑もうとしていた。口角を上げるが、苦い笑顔になっている。
「どうしたの良之」
「お屋形様から、お方様の傍に仕える様にとの指示がありました」
「そう。あちらはいいの?」
吉乃の事を指している。あおいは、池の鯉に視線を移した。
「智香殿も勘違いされているようですが、私は、」
そこまでいって良之は一旦、言葉を止めた。額を手で押さえ、呼吸を整えてから
「あちらの方に仕えた事実は御座いません。こちらに居を移された初日に、城内を案内したのみ。これまでは、私は、戦場にいる事が多く、城を留守にしておりました。ゆえに城にはなく、無論、吉乃殿の元になど……」
いい終わるまで、そこに立っていた良之は、慌てた様に片膝をついたが、とたん顔を歪め、左の肘を庇う様にして右手で覆った。
「どうかしたの?」
「浮野で合戦がありまして、その時に不覚にも左肘を負傷しました。生活には支障はないのですが、時折、指先が痙攣し、この様に急に痛んだりするので、それで、戦には不向きとお屋形様はご判断され」
良之は肘を抱えた格好で頭を垂れた。幼い頃から信長の小姓として寵愛され、信長親衛隊で騎馬隊の最高峰である赤母衣衆の一員となり戦場で活躍してきた良之にとって、事実上の戦力外宣告は、死に匹敵する悲しみだったに違いない。あおいも、その事は重々承知していた。
「大丈夫、ですか?」
「いいえ。でも大丈夫」
良之はきっぱりいうと、今度は本物の笑顔を見せた。あおいは良之の左手を取った。ふたつの掌で挟み、何やら念じる様に目を瞑っている。一分程そうして立ち上がろうとした時、足元がふらつき、良之に身体を支えられた。
「ごめんね、肘、痛くなかった?」
あおいは良之の肘を取り、やさしく撫でた。
「お方様、お気になさらずに」
「本当にごめんなさい」
真向いに立ち良之を見ると、身長が随分と伸びていた。いまでは、あおいを遥かに超えている。
良之の両手を掴んで、「これからもよろしくお願いします」と頭を下げた。
傍から見たら、恋人同士の仲睦まじい光景だ。本人は意識していなくても、不貞の現場と疑われても仕方がない。
「あ~、あおいも、佐脇殿も、何しちゃってるのよ~」
智香は足をバタバタと踏み鳴らしている。
しかしこのふたりの様子を見ていたのは、智香だけではなかった。
中庭を見渡せる本丸御殿の廊下の柱に寄り掛かり、信長は腕組みをしていた。鯉に餌を与えているあおいを眺めていたのだが、そこに、たまたま良之が現れた。ふたりの様子を遠くから眺めている信長は、唇の端を何度も噛んでいた。そのうち、唇に血が滲むと手の甲で拭き取り、ふたりを一瞥してから、奥の間に引っ込んだ。
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