第32話 今川義元

昼寝から目覚めた智香は、旅の荷解きをしていた。呉服屋で購入した反物を広げ、眺めたりしている。

「とーもか」

孝一が訪ねて来た。あおいの居室ではないので、気軽に出入りができた。部屋中に広がった反物や土産物を見渡して、首を振っている。

「これ、片づけられるのか」

「孝一にもお土産があるよ」

「お土産って、俺も京都に行ってたよ」

「奈良漬よ、孝一、奈良には行ってないでしょう」

奈良漬を探して、智香はそこら中の荷物から物をぽんぽん投げている。

「ああ、見つかった」

膝立ちで歩き、孝一に土産の奈良漬けを渡した。

「ありがとう」

奈良漬けの入った包装紙を眺めながら孝一は礼をいった。

「きょうは登城?」

「早朝から鷹狩りのお供だよ」

「早朝からって、昨夜、遅くに帰って来たばかりなのに?」

「睡眠時間の短いお方だから、お屋形様には関係ないの」

「そっかあ、大変だよね馬廻衆も」

智香は、散らかった反物の上に腰を下ろした。あおい同様、智香も髪を肩下まで切り、袴を履いている。

「佐脇殿が肘に傷を負ってしまってから、事務仕事の様な事しか出来なくなったから、その代わりに俺が徴用されているんじゃないの」

「最近の佐脇殿は元気がないよね。顔色が悪いというか」

「それでも、あおいの傍で働けるから良かったと思ってるんじゃない」

「えっどういう事?」

さあね、と孝一ははぐらかせた。佐脇良之があおいに恋愛に似た感情を抱いていると、孝一は思っていた。

「ところで、鷹狩りってどうやるの?鷹を狩るの?」

「鷹を狩る。ちがうちがう」

孝一は胡坐を組みなおして腕組みをした。

「鷹狩りはね、鳥見の衆という者が二十人いて、鴈や鶴を探し出し、一人はそれを見張り、一人は報告する係。他に六人衆というのがあって、弓や槍を持ち、常にお屋形様の身辺に控える。馬乗りというのが一人、藁に虻を付けて、鳥の周囲をゆっくり近寄る。それが俺の役目。お屋形様は鷹を手に据えて、鳥に見つけられない様に馬の影に隠れて近づき、走り出て鷹を放つ。鷹が仕留めた鳥を押さえる向かい待ちという役がいて完成」

「凄いわね」

「いやっそうだ、こんな事をいいに来たんじゃないんだ」といって孝一は智香の膝を自分に引き寄せた。

「なっなに?」

智香は顔を背け、疑った様に目を細めて孝一を見た。

「変な顔をするなよ」

引き寄せた智香の膝を押し戻し、孝一は襟を整えた。

「大事な事だから、ちゃんと聞いて」早口に、ぶっきら棒にそう言った。

「うん」と智香は頷いた。

「あおいの事だけど、もう妊娠できないらしいって?」

その後孝一は、遥から聞いた話を智香に説明した。

「そんな」といったきり、智香は何も喋らない。黒目だけを動かして、動揺していた。

「このままお屋形様との関係が修復すれば、あおいは次の妊娠を期待するだろう。そうなれば現実を突きつけられる時が来る。悪意を持って、あおいに余計な話をする輩も現れるだろう。その時にこそ、お前が傍にいて支えてやってくれ」

「わかってるけど、充分わかってるけど、それってあくまでも噂なんでしょう。しかも孝一、なんだか、どこかに行っちゃうみたいに言うじゃない。孝一も一緒にあおいを守ってくれるでしょう」

黒目がちの大きな目から涙がこぼれた。

「どこにも行かないよ。ただ現実問題として、駿河の今川義元が尾張に侵入して来ている。お屋形様も、これは大事になる。と御覚悟を示された。今川勢は鳴海城(名古屋市緑区)を占領している。大きな戦になる。桶狭間が近い」

「桶狭間?」

と智香は弱々しくいった。


「桶狭間?」

信長が去った後も、あおいは縁側に座っていた。犬はあおいに寄り掛かる様にして座っている。

どこからともなく、不意に頭に浮かんだ「桶狭間」という言葉を、あおいは口にしていた。


時折、強い風が吹きつけたと思ったら、土砂降りになり、そして晴天になるという変な天気の日だった。

あおいは、普段通り仕立物をしていた。京都の呉服屋で見た可愛らしい反物で、着させることのできない奇妙丸の産着を縫っていたのだ。開け放たれた襖から多門櫓が見える。遠くて顔まで確認出来ないが、鉄砲や槍を構えた兵の姿が見えていた。ああいう姿を見ると、ここは戦国時代なのだと再認識させられる。

「桶狭間の合戦て知ってる」

自室から戻った智香が唐突に聞いて来た。

「知ってるよ」

そういってすぐ、発言を訂正する様に、あおいは首を細かく振った。

「知ってるって程ではないけど、そんな合戦名を聞いた事があるの。それに偶然昨日、桶狭間というワードが頭に浮かんだのよ。なんでだろう」

「そうなの、不思議だね。実はね昨日、孝一が遊びに来てくれて、桶狭間が近いというの」

「桶狭間が近い?」

「良くわからないんだけど」

智香は首を曲げ、ふぅーと長い吐息を吐いた。

「織田信長の有名な合戦がもう時期おきるといっていた。敵方は二万五千人、織田勢は僅か二千人」

「二千人」

あおいは、人差し指と中指を立てると、

「そんなの勝てる訳ないじゃない」といった。

智香は首を振り、周囲を見渡した後、あおいに膝を寄せた。

「この合戦は勝つから、信長は大丈夫なの。でもね、小橋孝一という人間の保証はどこにもない。この世の人間でないけど、死んだりするのかな?」

「この世の人間って、なんか幽霊みたいないい方だけど、うーん」

あおいは腕を交差して俯いた。

「孝一を行かせない方がいいわね」

無理よ。再び智香は首を振り、孝一の意志が固い事を告げた。死ぬかも知れないから、その時はあおいを守ってやってくれといわれたが、その事はあおいには伏せておいた。これ以上、あおいを混乱させたくなかったからだ。


数日後、今川義元の軍勢が沓懸に陣を構え、大高城へ兵糧を補給しているのがわかった。

この頃の、朝の潮の干満を考えると、織田方の砦を攻撃することは確実だという情報を得たのは、その二日後であった。夕刻、佐久間信盛(重臣)織田秀敏(信長の連枝衆)が、その事を信長に報告した。

桶狭間の合戦は、間近に迫っていた。

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