第27話 吉乃の妊娠

お産の日からひと月が経過していた。

あおいの体調も、妊娠前と変わらない程、回復していたが、子供を失った精神的なダメージは大きく、人と会う事を拒否していた。勿論、信長も例外ではない。

この日は、寒さも和らいでいたので、外の扉を開けて、あおいは庭を眺めていた。

「きょうは、暖かいね」

何度、同じ事を言ったのだろう。智香は、返事を返さないあおいの肩に、真綿の詰められたはんてん型の掛け布団を掛けながらそういった。

「こんなお城、出ようか?」

智香は、あおいに寄り掛かるようにして横に座った。

「お城を出る?」

ひと月ぶりに聞く、あおいの言葉だった。智香は驚いた様に首を伸ばし、目を充血させてあおいを見た。

「出たい、お城から」

智香を真っすぐに見るあおいの目には強い覚悟があった。智香はあおいの手を取り、大きく頷いた。

ふたりは侍女が着る小袖に着替えていた。智香も名目上は、あおいの侍女だったが、着ている物は、あおいと同じ種類の小袖だった。同じ生地で仕立てた物も多く、いつも姉妹の様な恰好をしていた。

きょうは城を出ると決めたので、変装の意味で侍女の恰好をしている。智香からの情報によると、信長は外出しているらしい。家出をするのには絶好の機会であった。

「意外とすんなり出てこられたね」

智香の声は弾んでいた。腰袋におにぎりを詰め、水も完備している。

「そうね、なんだかワクワクしてきた」

「取り合えず、孝一の所に行こうか?」

「うん、でも」

あおいは立ち止まり、孝一の住む、侍長屋のある方を見た。

「孝一は子供が生まれたばかりだし、わたしの事で迷惑掛けたくないし」

「そうか、遥が子供を産んだっていうのなら、父親は孝一の可能性が高いものね」

ふたりは互いに頷いた。城を出てきたのは良いが、行く当てなどなかった。ねねを訪ねれば、ねねと秀吉を巻き込む事になる。既に智香を巻き添えにしている事も、あおいの気持ちを沈ませた。大きな覚悟は脆く崩れ始めている。

「久しぶりに、甘いものでも食べようか」

あおいがいうと、智香もうんうんと頷いた。

清洲の城下町に向かい、歩いていたが、ふたりは無言であった。この時代に、誰の頼りも受けず、女ふたりが生きていく事など、無謀だと気づいていた。これ以上、智香を巻き込むわけにはいかない。城下町の喧騒を眺めながら、殆ど当てもなく歩いていたら、一軒の店から宴会の様に賑やかな声が聞こえてきた。何気なく、そちらに目をやり立ち止まると、中から男が暖簾を開けた。

「あっ!」三人は同時にそういった。中から出て来たのは信長だった。

ひと月ぶりに見る信長は、何故か女者の小袖を着て、天女の様な布を肩から掛け、小鼓を持っていた。

「その恰好」

あおいは、信長を指さしてそういった。

「ああ、仮装踊りをしていてな」

信長は罰悪そうに自分の着物を摩ったり、指で摘まんだりしている。

「仮装踊り?」

「日頃、世話になっている家来衆を集めて、仮装踊りをしていたのだ、皆それぞれ仮装しておる」

ふーんと、あおいは頷いて、深く頭を下げた。

「では、失礼します」

「待て、待て、どこに行くのだ?」

信長は小鼓を持つ反対の手で、あおいの手首を掴んだ。

「甘味処に」

「甘味処に行くのは構わんが、女ふたりで出掛けるのは不用心ではないか」

信長は智香を見て、同意を求めた。

「で、御座いますか」

抑揚のない口調であおいが答えると、信長は手の小鼓を地べたに投げつけた。驚いて顔を背けるあおいの腕を掴んで顔を寄せた。

「何故、逆らう?わしが何をしたというのだ」

声は小さいが、両腕を掴んだ手に力が入る。

「何もしてない?そういうのなら、もうわたしを自由にさせて下さい」

腕の痛みに耐えながら、絞り出すようにあおいはいったが、その顔には緊張の色が浮かんでいた。隣で智香は、あわわと動揺している。

そこに家臣の滝川一益がやって来た。一益は餓鬼の恰好をしていて、その姿がゾンビに見えて、智香がキャーと叫んだ。

「お屋形様、人目が御座います」

そういわれ、信長の腕の力が抜けてゆく。

「一益、これらを城に送り届けてくれ」

それだけいって、信長はまた暖簾をくぐった。


あの日から三か月が過ぎたが、信長との関係修復には至っていない。

彼が、あおいを訪ねる事もなく、あおいと智香は毎日、ふたりきりで過ごしていた。この頃、智香は、あおいの部屋に泊まっていたので、寂しい事はなかったが、心の奥底の空虚感は、出産後から一度も消える事がなかった。

「ご飯も食べたし、きょうは少し、お城の中庭にでも出てみようかな?」

「いいね、三か月部屋の中にいたから、太っちゃったし」

そういって智香は足を投げ出して、お腹を摩った。

「ごめんね智香、わたしに付き合わせて」

「なにいってんの。こうやって、あおいの傍にいられるだけで、大満足ですよ」

ふたりは膳を片付けはじめた。清州に越してきた頃に、小さな水屋を併設してあったので、煮炊きをするのに、台所にいく必要がなかった。全ての事を、小さな庭付きの二間で済ませていた。

食事の片づけを終えると、ふたりは袴姿から着流しの小袖に着替え、居室の庭ではなく、城の大きな中庭に出た。初夏の日差しが、とてもやわらかだった。

「こんな庭だったけ?」

あおいは広大な中庭を見渡して、そういった。引きこもった頃は雪のちらつく季節だったので、新緑の季節は全く別の姿をしている。

「うーん、気持ちがいいね」

両手を空に伸ばし、智香は気持ちよさそうにしている。

「本当に、ごめんね」

「もう、ごめんねばかりじゃん、あおい」

ふたりは歩き出し、これまで行った事のない奥の方にある庭を目指した。というのも、新しい建物が見えたからである。何が出来たのか気になって歩いた。

「うわー、きれいなお屋敷だね、あおい」

「誰のかな?」

智香の手を握り、腰を低くして、木々に隠れる様にして、新しい建物を見た。

本丸に通じる外廊下も造られたその屋敷は、真新しい欅の書院造で、周りに塀などはなく、座敷の周りをぐるりと廊下で囲んである。

「お坊さんのかな」

智香がいった時、人の騒めきが聞こえて来た。

「しっ」といってふたりは身を隠した。なぜなら、その声の中に信長の声が混じっていたからだ。

「まあ、すてき」

女の声が聞こえた。ふたりは顔を見合わせてから、その人物を見た。遠目であったが、そこそこ年のいった小綺麗な女が、信長に手を取られ慎重に歩いている。そのお腹はポッコリと膨らみ、体系の感じから、妊娠しているのがわかる。

「気に入ってくれたかな、吉乃殿」

ー吉乃ー

聞き覚えのある名前だ。見ると、良之も連れ立って歩いている。

「落ち着いたら、奥に挨拶に向かうが良い」

「はい、心得ております」

「うん」満足した様子の信長は、笑顔で頷いた。

「良之、お前が、ご案内して差し上げろ」

奥というのは帰蝶の事だと察した。あおいに対し、信長は帰蝶を奥と呼んだ事はない。大抵、帰蝶殿と呼んでいた。あおいは、彼らに背を向ける様にしてその場に座り、薄っすらと微笑んだ。智香も同じ格好で座り込んだ。

あおいの横の木々が微かに揺れ、そこから孝一が現れた。

「よっ!」

と片手を上げる孝一を見た時、懐かしさと、喜びと安心感が入り混じった感情が溢れ出て、ふたりともが涙を流した。

三人は、あおいの居室に来ていた。

寝室の襖を閉めて、いつでも庭から逃げられるよう、縁側に寄添う様にして、孝一は座っていた。

乗馬鍛錬用の革袴を履き、正座した片方の膝を立てている。

「信長も良之も、ここには来ないわ」

あおいは、吉乃の新居の方向を見て、そういった。

「ああ」

眉を寄せ、軽く唇を噛んで、孝一は頷いた。あおいは淀んだ空気を変えようと、明るい声を出した。

「会いたいと思う時に孝一はいつも来てくれるから救世主のようだわ」

「救世主なんかじゃないよ」

「きょうは、どうしたの?」

「なんとなく胸騒ぎがしてね、気が付いたら、ここに来ていて、帰ろうかと思った時に、あおいと智香が庭に出たんだよ。何気なく、追っかけていたら、さっきの状況」

孝一が言い終わると、智香が「ああ!」と大きな声を出したが、自分の声に驚いて両手で口を塞いだ。

「どうしたの?」

身を乗り出して、あおいが聞く。

「いま思い出したんだけど、遥、子供産んだの?」

「そうみたいだね」

孝一は、無表情で答えた。

「孝一の子供じゃないの?」

「ちがうちがう」

といって孝一は手を振って見せた。あおいと智香は顔を見合わせ首を捻った。

「じゃあ、誰の子供なのよ」

智香が孝一の、立てた方の膝を叩いた。

「知らないよ、ただ俺の子供じゃないのは確か。子供が出来た時期と、そういう時期とが異なる」

いいながら、孝一は宙を向いて、貧乏ゆすりをした。

「じゃあ遥とは一緒に住んでいないの?」

智香は、孝一の膝を揺らして、唇を尖らせた。

「いまは、奥方様の居室傍で暮らしている」

「赤ちゃんは?」

自分の胸の上に手を置いて、あおいはいった。ついこの間まで出ていた乳が、最近は完全に止まってしまったことを寂しく感じていた。

「奇妙丸のことか?」

「いいえ、遥の赤ちゃんよ」

孝一は大きく息を吐いてから、首を振った。

「生まれた直後に亡くなった。あおいの奇妙丸が生まれる一週間程前だったかな?早産だったみたい」

「そうだったの」

同じ母親として、遥を不憫に思った。自身の子を失い、他人の子に乳をあげる事の矛盾が悲しかった。

「お前は大丈夫か、あおい」

「そうね、ボロボロかな」

「奇妙丸には?」

「ううん」

「そうか、、、」

重い空気が室内を覆っていた。戦国時代にタイムスリップした四人其々が、しあわせとは言えない人生を送っている。これは、この四人に限った事ではなく、この戦乱の世に生きる全ての者が背負う、不幸の連鎖なのかも知れない。それは信長も例外ではなかった。

「いつか、帰れるかな、あの時代に」

そういったのは智香だった。珍しく浮かない顔をしている。

「どうしてタイムスリップしてしまったのか、ずっと考えていたんだ。もしも、時空を超えた時と同じ条件が揃ったなら、帰れるかもと」

「あおいは帰りたい?」

「そりゃ、帰りたいわよ。ただ」

といって俯いた。あの時代に帰りたい。帰って残りの高校生活を送り、両親との温もりの中で生きていきたいと思っている。しかし奇妙丸の事が気がかりであった。

「奇妙丸も連れて行っちゃえばいいじゃん」

智香が明るくいって手を打った。すると突然孝一が、

「未だ帰れると決まった訳じゃないし、空想の話をするのは止めよう!」

そう声を荒げた後、ごめんと頭を下げた。

「遥はともかく、孝一とわたし、あおいの三人で、どこかで暮らせたら、いまよりもしあわせになれるかも」

「令和に帰るよりも、そっちの方が現実的かもな」

「たしかに。孝一さえいてくれたら力強いしね、ねえ智香」

「そうなれば、いいね」

智香は少女の様に目を輝かせて、そういった。

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