第26話 裏切りはここから
織田家の家督争いは収束するところか、事態は悪化の一途をたどっている。
岩倉城当主織田信安は斎藤義龍と示し合わせ、信長に敵対。腹違いの兄信広も美濃と申しあ合わせ謀反を決意した。信長の殺害計画を企てた信広は、
「信長は、領地に敵が押し寄せると、軽々しく出陣するゆえ、信長の留守中、城の留守番に置かれている佐脇藤右衛門を訪ね、佐脇を殺す。その合図として狼煙を上げたら、美濃勢が攻め込め。わしは信長の味方のふりをして合戦に参加し、隙をみて信長勢を後方から攻撃しよう」
そう斎藤方と申し合わせたが、信長はこの異変を察知した。
「川岸付近に集結した美濃勢が、あまりに静かではないか?これはもしや家中に謀反があるやも」
信長は早速良之を遣い、佐脇藤右衛門に、
「佐脇は城を出てはならぬ、町人も町の外郭を整備し、城門を閉め、わしが帰るまで人を入れるな」
と伝え、出陣した。
信長が出陣した事を聞いた信広は、手兵を残らず率いて清州城に出陣したが、いくら申し入れても門は開かず、「もしや謀反が知れたか」と感じた信広は撤退。美濃勢も退去した。
「そろそろかな?」
信長は、出産間近のあおいの腹を撫でていた。予定日とされていた日から、二週間も過ぎ、元気に動き回っていた腹の子のは、微動だにしなくっていた。もしかして、お腹の中で死んでしまったのではないかと、毎日が不安だった。連日の戦で、見るからに疲弊している信長に相談する事も出来ず、とにかく一日でも早く産まれてくれる事を願い、毎日、朝晩、城内を散歩するのが日課になっていた。
いつもは智香とふたりで歩くのだが、この日は珍しく信長と散歩に出ていた。昨夜に降った雪が道端に残る寒い日だった。信長はあおいが滑らない様にと手を握って歩いてくれていた。腹が目立つにつれて、信長の意識も高まり、良く気を遣ってくれる。やさしくしてくれてはいるが、この戦の最中でも、生駒邸通いは全く変わらない。
ただ以前と違うのは、必ず日中に帰ってくる事だ。一晩城を開けるような不用心はなくなった。
「なかなか産まれませんね」
「医者はなんと」
「初産には珍しくないことと言われました」
「なら良かった」
西に傾いた太陽に向かい目を瞑り、あおいは大きく息を吸い込んだ。
「早く赤ちゃんに会いたいなあ」
「だな」
信長は軽く頷いた。
「男の子、女の子か、どちらでもいいから無事に産まれてきて欲しい」
「おなごが良かろう、おなごが」
ぽそりと信長が呟いたので、あおいは足を止めて信長を見た。これまでは、健康ならどちらでもといっていたので、不思議に思ったのだ。
「女の子?」
「ああ、女の子は可愛いし、家を背負う責任もない」
信長は眉尻を下げて微笑んだ。
「そうですね、肌着をたくさん、しつらえましたが、肌着なので、男女どちらでも良いし。確かに女の子は可愛いかも」
でも、とあおいは信長の手を払い、両手で腹を抱えた。
「お嫁に行っちゃうのは寂しいですね、この時代、お嫁に行くと一生会えないでしょう」
「そんな事いまから気にするな」
信長は軽く笑い、再び、あおいの手を取った。
「この時代とは、乱世の事をいっておると思うが、わしは娘を政略結婚させる気はない。娘は信頼できる家臣に嫁がせるつもりだ」
「そうですか。男の子でも、女の子でも、しあわせになってくれれば、それがいちばんの望みです」
信長が答えないので、あおいは顔を覗いた。
その横顔は憂鬱だった。謀反が相次いでいると聞く。心労は相当なものだろうと思った。信長に不利な状態の時に、味方になってくれる者は稀であり、現実、一人集中攻撃を受けている様なものだった。家督争いに加え、美濃との戦、今川義元率いる駿河勢の進行も目立って来ている。この頃の信長は、尾張の半分も支配下に置いていなかった。
その日の夕方、あおいは破水した。昔、近所に住むお姉さんがしていた様に、湯殿で身体を洗い、出産に備えた。これまで縫い上げた何十枚もの肌着、布おむつ、産着、帽子の中から数枚を産室に持ち込み、布でこしらえた鈴の入った布製ガラガラも持参した。
少しづつ、陣痛を感じたが、未だ我慢できる段階だ。連絡を受けて、信長がやってきた。
「大事ないか」
額に鉢巻き、白い寝間着に身を包んだあおいが座る布団の脇に座り、背中を摩った。
「殿、ここは男子禁制と聞きましたよ」
「構わぬ。医者とて男子であろう」
「しかし」
出産に立ち会う侍女らが、信長の乱入に戸惑っていた。そこに池田恒興の母、大御ち《おおおち》が訪れる。
「まあまあ、心配なのはわかりますが、ここは穢れのを間で御座りますよ」
大御ちは、信長の乳母であり、父信秀の妾でもあるので、信長にものを言いやすい立場にいたし、信長自身も、恒興の母を信頼し懐いていた。
「穢れというのは、血を意味するものであって、しかし我らも血を伴う武士であるから、穢れをそう恐れる事はない、武士は穢れ、その者ではないか」
「その様な事」
大御ちは、目頭を摘まんで首を振った。
「わかったわかった部屋を出てゆく」
信長はあおいに同意を求めるかのように何度か頷いている。
「うるさいお婆じゃ」
やれやれといった感じで信長は腰を上げかけたが、思い直して、その場に片膝をついた。
「傍にいてやれないのは残念だが、無事に元気な子を産んでくれ」
「はい、がんばります。安心して」
あおいは片手を胸の前に上げて、ガッツポーズを作ってみせた。初めての出産は不安だったが、智香も立ち会ってくれるらしいし、乳母の大御ちとも交流があったので、そういう面では心強い。なにかと孤立しているあおいの力になってやってくれと、信長が大御ちに頼んだらしいのだ。
「苦しくなったら、なんでも言え。お前の身体が第一なのだから」
あおいの肩に手を置き、その手を髪の毛に伸ばして撫でててくれる信長のやさしさが嬉しかった。頬に伸びた手に、自分の手を重ね、うんと頷いた。
部屋を出てゆく信長の背中を見送っていたら、急に激しい陣痛が襲ってきた。
「痛い」
布団に身体を横たわらせ、上体を捩じるようにしていたら、産婆と大御ちが駆け寄って来た。大事に備え、医者は別室で待機している。
「さあ、落ち着いて」
と大御ちが冷静に話しかけ、あおいの上半身を起こさせ、折った布団にもたれさせた。
「あおい、わたしが傍にいるからね」
いつも不安げな智香は、きょうは頼しい。あおいとお揃いの鉢巻きを巻いていた。その姿を見た信長に、「頼んだぞ」といわれ、余計意気込んでいる。
最初の陣痛から二十時間が経過していた。朝が明け、日が沈みゆく時間になっていた。あおいの体力は限界に近い。時折、智香が水を含ませてくれるが、殆どの飲み込めないでいた。
「そろそろじゃな」
産婆がいった時、激痛があおいを襲った。思わず声が出てしまい、大御ちが猿ぐつわを噛まさせた。当時、武家の女は、例え、出産であっても声を出すことを恥と習い、口に布を噛ませて耐えたのだ。
天井から垂らした産綱を握る手に最大の力が入った時、するすると赤ちゃんが生まれ出た。
「ああ、生まれた!」
あおいの、汗を拭いていた智香が歓喜の声を上げた。元気な産声が産室に響く。
「男(おのこ)で御座います」
と叫ぶ産婆の後に、大御ちが
「若君様の誕生で御座います」と涙を滲ませた。
重ねた布団に身体をもたせ掛け、あおいは「赤ちゃんを」と手を伸ばした。一昨日、縫い上げたばかりの、おくるみに包まれた赤ちゃんが胸元に運ばれてきた。羊水などが付着したままで、肌の色も紫に近く、お世辞にも可愛いとは言い難かったが、この世に生を受けたばかりなのに、必死に泣いている赤ん坊の姿は、かけがいのないものだった。
「可愛いね」
智香が顔をクシャクシャにして泣いていた。
「可愛い」
顔を指先でなぞると、小さな唇が指に吸い付こうとした。殆どはだけていた襟から乳房を出して、赤子に含むと、驚いた事に、小さな身体いっぱいの生命力で乳を吸い込んだ。
なんと愛おしい光景なのか。この世に生まれて初めて、誰かを守りたいと、あおいは心から思った。この子の為ならば、命を投げ捨てることに、何の躊躇もない。寧ろ、子の命が助かるならば、喜んで差し出せる。出産中は、産みの苦しみに泣いたが、いまは、守るべき者が生まれた事に感動し、涙が溢れ出ている。
「では、そろそろ」
と産婆が、赤子を胸からはがした。唇が乳首から離れ、ぽんという音を出したと同時に、また泣き出した。
「未だ、吸いたそうだし」
「生まれたばかりで飲みすぎると、今度は吐き出してしまうからのう」
そっかと、納得し、産湯に浸かる赤ん坊を眺めていた。真新しい産着に着替えさせられた赤ん坊は、すやすやと寝ている。
「こちらに」
と手を伸ばした瞬間、また激しい痛みが腹を襲った。
「後産じゃ」
産婆は揚々といい、あおいの足元に寄った。
それから三十分が経過しても胎盤が剥がれる様子がない。痛みは出産に匹敵した。意識が朦朧とし、必死で話しかける智香の声も遠のく。何やら人が忙しく騒いでいるのがわかる。
ーわたし、死ぬのかなー
目覚めた時、産室から居室にある寝室に移されていた。赤ちゃんの泣き声がする。すぐに辺りを見渡し、赤ん坊を探した。
「赤ちゃん」
と呼びかけると、
「アッ、起きた!」
智香の声がした。上体を上げ、目を凝らすと、智香はおくるみに包まれた赤ん坊を抱えていた。
「良かった~お母さんだよ」
「智香、ありがとう」
そっと赤ん坊を受け取る。お腹を空かせているのだろう、大声を上げて泣いていた。急いで乳を含ませると、ごくごくと音を立てて飲みだした。
「母上にお乳を貰っているのか」
信長が部屋に来た。智香が立って部屋の隅に座る。
「良くお乳を飲んでくれるので、嬉しい」
そういった時、赤ん坊は何かを思い出した様に、また泣き出した。
「あらら、どうしたの?」
声を掛け、背中を摩って乳首に口を運ぶと、また飲みだした。
「お腹が空きすぎて、怒っているのね」
「わがままな子だ。乳を貰っているのに、すきっ腹を思い出して泣くとは」
赤ん坊は、この行動を何度か来り返すと、すーと眠りについた。背中を叩いてゲップをさせ。また胸に抱いた。障子からすり抜けるやわらかな日差しが、赤ん坊をやさしく包んでいた。あおいは寝入った赤ん坊を、子供用の布団には寝かせず、抱っこしたままでいた。
「寝かせないのか?」
「うん、このまま見ていたいから」
膨らんだ頬に触ると、偶然、赤ん坊は口角を上げた。
「笑った」
若いふたりと、智香は顔を見合わせて喜んだ。
「長い出産であった」
「わたしは、途中で寝てしまっていたのですか?」
「寝たというよりは意識を失った」
「意識を」
何も覚えていない。智香を見ると、彼女はうんと頷いた。すると信長が話し出した。
「産婆と医者の話によると、なかなか胎盤が出て来ず、搔きだす事になったらしい。痛みが激しくで気絶してしまったのだろうと申しておった」
信長は大きなため息をついて、首を振った。
「大量に出血もしていた」
「出血も?」
「子が生まれたと聞いて産室に向かったが、大騒ぎになっていて中を覗いたら、お前はぐったりしているし、一面が血の海で、もう駄目かと思った」
「お屋形様は、あおいを死なせたら、お前らを殺すと、お医者と産婆さんを驚かせたの」
口の横に手を当て、智香が口を挟んだ。
「まさか、本気ではない」
「驚ろかせたら、もっと緊張しちゃうわね」
あおいは笑いながら、赤ん坊に話しかけた。
「しかし無事で良かった。お前も、赤子も」
ありがとうと、信長が頭を下げたので、思わずあおいも頭を下げた。
「こちらこそ、こんな可愛い赤ちゃんを授かりました。本当にありがとうございます。大事に、大切に大切に育てます」
信長は頷いたが、その顔は神妙であった。
「名前って、決まりました?」
「ああ、名前な」
顎に手をあて、信長は赤ん坊を覗き込んだ。
「うーん、猿のように奇妙な顔をしておる」
「お猿さん?まあ、酷いわね。こんなに可愛いのに」
「良し、決めた!」
信長はあおいに向いて、力強く頷いた。
「奇妙丸にしよう」
「奇妙丸?」
「ああ、奇妙丸だ」
「それは、顔が奇妙だからで御座いますか?」
「である。所詮、幼名だ、長くは使わぬ。それに」
信長は声を潜め、あおいに顔を近づけた。
「あまり立派な名は、運気が悪いと言われておる。わしは信じてはおらぬが」
「ならば、そうしましょう」
余り神仏を信じない傾向にある信長が、珍しく迷信を語るので可笑しくなった。
「その代わり、諱は立派なものにする」
任せておけとでも言いたげに、信長は胸を叩いた。
和やかに時間が過ぎ、そろそろ横たわろうとしていた時、大御ちが姿を現した。良く見ると、その後ろに遥がいる。とてつもなく嫌な予感がした。
「それでは、そろそろ」
大御ちがいい、布団に寝かせたばかりの奇妙丸を抱き上げた。
「どちらに?」
検診か、何かしらと思い、あおいは聞いてみた。すると大御ちは、信長に目をやり、眉根を寄せた。
「実は」
信長はあおいの両手を取り、正座をした。
「奇妙丸は、正室、帰蝶殿の元で育てられる」
「え?」
嘘をいっている顔ではない。あおいの目を凝視し、口を一文字に結んでいる。
「赤ん坊は嫡男である。いずれ織田弾正忠家を継ぐ。その子は、わしと帰蝶殿の子となるのだ」
「いっ意味がわかりませぬ」
「幾度か説明しようとしたのだが、お前も武家に暮らす女ならば、わかっていることだろうと」
あおいは大きく首を振った。
「わかりませぬ、そんな事、わかる訳ないじゃない」
立ち上がり、大御ちから奇妙丸を奪おうとするのを信長が制する。
「あおい、理解してくれ!」
「嫌です。わたし、城から出て行くから赤ちゃんを返して、後継ぎになんてならなくていい」
泣きわめきながら、奇妙丸に手を伸ばす。奇妙丸は泣き出し、大御ちは涙ぐみ、あおいに背を向けた。
「はっ遥、どうして、返して、ねえ」
遥は険しい顔をしていたが、目には涙を浮かべていた。険しい顔は、涙を堪える為だと思えた。
「わたしが、若君の乳母になったの」
「乳母、遥、子供を産んだの?」
そういったのは智香であった。遥に走り寄り、両手を掴んで揺らした。
「そう、子供を産んだのよ」
それだけいうと大御ちに促され、遥は部屋を出た。次いで大御ちも部屋を去って行こうとする。
「待って、待ちなさいよ!」
必死に追いかけようとするあおいを、信長が抑える。
「赤ちゃんが泣いてる、お腹が空いてるの、お願い、返して」
一礼して立ち去る大御ちに向かい、あおいは
「どうして、どうしてこんなことするの。生まれたばかりなに」
と叫んだ。
そして信長が抑えるのを振り切り、あおいは廊下に出た。
「待って」
力が尽きたように廊下に膝をつくと横座りになり、大御ちに片手を伸ばした。
「どうか、待って……奇妙丸は、お腹が空いているの。どうしても連れて行くというのなら、どうか、お乳を与えて下さい。お願いします」
あおいは、震える手を床につき、頭を下げた。
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