第25話 銭亀のはなし

ふたりは内庭に沿って築かれた廊下の脇を歩き、自室の専用部分にある生垣に備えられた扉を開くと、座敷には上がらず縁側に腰かけた。

「はあ」

あおいは指先で目頭を摘まむと小さく息を洩らし、それから前を向き、ふだん見慣れた景色を眺めた。

「びっくりした」

智香と顔を見合わせ、声を出して笑った。

「驚いたね」

「驚いた」

同じ事を、それぞれが口にして、また真正面を向いた。

「あれ、だれかな?」

といったのは、あおいである。概ね、想像はついていたけど聞いてみた。

「さあ、生霊じゃない」

そう智香がいうので、ふたりはまた笑った。笑いながら、あおいの頬を涙が伝った。

「あおい」

「大丈夫よ、涙を流す事でストレスを発散してるんだから。少し驚いただけだし、ぜんぜん気にしてない。妊娠中で情緒が不安定になりやすいだけだから平気よ」

「妊娠中なのにね、なんだよもう信長、あちこち信じられない!」

智香がぷりぷり怒っていると、すまぬなと、後ろから声がした。

智香の背筋がすーっと凍り付いて行くのがわかる。背筋を伸ばし、緊張で固まる智香に、あおいは「部屋に戻ってて」と伝えた。

「何か御用でも」

自然に振舞おうとしても、どうしてもこういう口調になる自分がもどかしい。唇の端を噛んだ。

「まあ、そう突っかかるな」

といって、あおいの横に座り、下腹が少しポッコリしてきた腹に触れた。

「未だ小さいな、この様なものなのか?」

「お腹が目立たない方だと、お医者さまは仰せでした」

「目立つ目立たないがあるのか、知らなかった。何はともあれ、無事に成長してくれていれば良い」

「はい」と頷くと、

そうじゃ!と信長は膝を打った。

「お前、銭亀という亀を知っているか?」

「銭亀でございますか、うーん、たぶん」

首を傾げた。小学校の教室で飼っていた記憶があるが確信がない。

「面白い話があるのだ」

「面白い話しって銭亀の?」

「ああ、そうだ。此度の合戦のこと知ってる?」

「それとなーく」

「美濃の内輪揉めの」

「はい、たぶん、なんとなくですが」

「まあ良い、それでは話を進めると、陣所を整えている場所に銭亀が多数沸いてきた。1000,2000匹はいたかな?」

「なんででしょう?」

「ようわからぬが、ともかく、どこもかしこも銭を敷いた様になって、可笑しくて皆で大笑いしておったのだ」

その光景が本当に楽しかったらしく、信長は腹を摩りながら笑っていた。

この頃の信長は昔の茶筅髷とは違い、月代を作っていた。月代とは、額から後頭部にかけて反り込みを入れるものをいう。しかしこの日は烏帽子を被っていたし、その烏帽子が通常のより後方に長い、引立烏帽子であった。額に鉢巻きの様なものを巻き、髪は下ろしている。鎧の下に装着する着物のせいか、きょうは特に精悍さが増して見えた。

「それは珍しい光景ですね」

あまりに信長が笑うので、あおいの口調から棘が消えていた。

「お前にも見せてやりたかった」

「戦場には、おなごは行けないものなのですか?」

「そうだなあ」

信長は組んでいる足首を揉んでいた。

「そうとは限らない。人によってはおなごを同行させるみたいだが、わしは好まぬ」

「足手まといになるからですか?」

「それもあるが、戦は武士の役割で、即ち男の持ち場である。おなごは城に残り、家を守り、子を産み育てるもの。坊主は祈るもの。百姓は田畑を耕し、商人は商いに徹する。それぞれに役割があると思うのだ」

「なるほど」

あおいが生まれた時代に男がこんな発言をしたら、女性蔑視だとか多様性とか言われ、罵倒されそうだが、命がけで戦っている信長の言葉には、説得力があった。

「此度の戦も、苦戦した」

「で、ございましたか」

「おなごの体力では持たぬ」

足首を揉んでいた手で、信長はあおいの手を握った。左の頬に土の汚れが付着している。戦場から城に帰ってから、未だ着替えも終えず、かなり疲労困憊している様子だ。

「戦の話に興味でもあるのか?」

「聞いてみたいです」

あおいは、身体を信長に向けて姿勢を正し、今度は、自分から信長の手を両手で挟んだ。信長は、では、といい、初めて戦の話をした。

「此度、大良という場所に本陣を構えていたのだが、そこから三十町(3.3キロ)ばかり出撃した所で敵と遭遇したのだ。そこでは足軽合戦となり、主要な家臣が数名討死した。森可成も馬上での斬り合いになり、膝を負傷した。その後、訃報が入り、その、道三の。我が軍は本陣まで撤退したのだが、尾張までの道は、大きな河で隔てられているので、兵士、牛馬はすべて後方へ退去させ、わしが殿(しんがり)を務めた」

「しんがり?」

「殿とは、他の兵を先に行かせ、自分は後方で追撃してくる敵に備える隊の事をいう」

「危険なことではないのですか」

「ああ、危険だな」

信長は他人事の様にいって、笑って見せた。

「全軍に河を越えさせて、わしの乗る船を一隻だけ残しておいた。ほかの兵たちが河を渡った頃、敵の騎馬武者数名が川端まで駆けて来たので、鉄砲で応戦すると、それ以上は攻めては来なかった。ゆえ、わしも船に乗って無事に帰城できたという訳だ」

「危ないところでしたね」

「であるな」

これだけ危険な戦を終えたばかりなのに、信長は抑揚のある話口調で、昔話でもするように語っていた。しかし、ふと真顔になり、吐息を洩らした。

「斎藤道三が討死した」

道三の死に関しては、信長が帰城する少し前に、智香から報せを受けていた。

「帰蝶殿は、わしがわざと後援に遅れたのではないかと」

「わざと」

「しかし」

信長は口角を上げ、あおいに顔を近づけた。

「はっきり、違うとも言い切れなかった」

「ええ」

「そういう事だ。帰蝶殿には、事態が落ち着けば実母の暮らす美濃に帰る事をお進めした。その方がいいと思うからだ」

「なんと仰せで」

信長は首を振った。

「何も答えなかった。ただただ震えていた。お前が、わしを見たのが、丁度その頃である」

「そんな」

あおいは、返す言葉を見つけられなかった。帰蝶は、自分よりもはるかに孤独なのではないかと、そう思った。信長も然りである。

孤独で、だからこそ強気で、性格がどことこなく似ているふたりだからこそ、寄添う事を嫌い反発するのではないかと。

「殿?」

ふと、隣を見ると、足を組んだ姿勢で信長は眠ってしまっている。夕暮れの空の日差しが、疲れ切った信長の頬を照らしていた。


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