第24話 帰蝶の切なさ、道三討死
部屋に戻ると、あおいは膝から崩れ落ちた。板敷の床に片手をつき、もう片方の手で腹を抑えている。良之と智香には帰る様にと伝えてある。慰めを聞きたくなかったのと、この醜態が惨めすぎたからだ。
あんなに強気に大見栄を切っといて、胸の鼓動は痛いくらいに高まっている。頭が混乱し、収拾がつかない。
涙が床を濡らし始めると、声を押し殺した。両手で口を塞いでも、咽び泣く声は指の間から溢れ出ていた。
一時間程、泣いていただろうか、いつの間にか寝てしまっていた。
布団に運ばれて、毛布を掛けられ、髪をかき分けてくれている。やさしい指先だった。
目を開けると、燈明の明かりに揺れる天井が見えた。
「あおい」
と呼ばれ、顔をずらす。視線の先には信長がいた。枕元に座り、薄っすら微笑んでいた。
「殿、お帰りになられたのですね」
あおいの目は充血していた。目の周りも赤く染まり、信長がかき分けた前髪は、未だ濡れていた。
身体を起こそうとしたら、信長が腰に手を当ててくれた。
「自分でおきます」
あおいはその手を払い、自力で起き上がると、部屋の隅まで逃げるようにして行った。
「如何したというのだ」
信長はその場所から、あおいに話しかけた。あおいは背中を壁に付けたまま、ずりずりと座り込む。
実は信長、一連の事情は、良之から聞かされていた。厄介なことになったと思ったが、あおいが気丈に振舞っていたと聞いたのでひと安心したのも束の間、部屋に入るなり、床で寝ているあおいを見つけ、抱きかかえると、泣き顔のままであったので、あおいが深く傷ついた事は承知している。
「いいえ何も」
あおいは、ただ頭を振っていた。堪えていたが、次第に泣き顔になっていく。この時代に生まれた武家の女でない限り、側室制度を受け入れるのは難しい。しかも、自分が側室の一人なら尚更混乱する。
「そんな所に座っていたら、腹の子に響く、さあ、こっちへに来なさい」
「いいえ」
「愚かな、ばかを言うでない。お前は母親なのだ。早く布団に入り、寝なさいよ。それとも、ずっとそこにそうして座っているというのか?」
「殿が部屋を出て行くまで、寝ません。その後で、寝ます」
そうあおいが言うと、信長は肩を落とし、下を向いて首を振った。
「疲れた」
彼が去ってからも、あおいはその場所に座っていた。もう泣く事はなかったし、あれだけ泣いた事を後悔さえしている。
「バカバカしい」
このまま令和の時代に帰れないのなら、いっそ死んでしまった方がましだとさえ思っていた。
翌日、信長の居室を帰蝶が訪ねた。昨夜の一件が、信長の頭から離れない。身重のあおいを混乱させた意図とは何なのか、帰蝶への不信感が拭えない。
「きょうは、父上からの書状をお持ちしました」
「道三の」
帰蝶は信長に向かい合う形で座っている。赤を基調とした打掛の金糸銀糸が輝いていた。胸の襟に挟んでいた書状を取り出し、それを志保が受取り、それをまた、良之が信長に渡した。信長は書状を読み終えると、良之に手渡した。
「美濃を某に譲ると書いてある」
「ええ、わたくしへの書状にも、その様に記されておりました」
信長は黙っていた。腕組みをし、真っすぐ帰蝶を見ている。
「本日は、殿に願い事があり、参じました」
帰蝶は膝を信長の方へにじり寄せると、人払いを願った。二人きりになるのは、輿入れ以降初めての事である。居心地の悪さが信長を襲い、首を何度も傾け、肩を解す仕草をした。
「願いとは?」
「父上と、兄義龍のことに御座います」
道三と義龍と聞いて、意外な気はしなかった。道三には、義龍、孫四郎、喜平治という三人の息子がいるが、道三は嫡男義龍を「愚か者」だと蔑み、次男、三男を尊重した。というのも、義龍の母親深芳野は、元々土岐頼芸の妾であり、のちに斎藤道三の側室となったのだが、道三へ下贈された時には既に義龍を懐妊していたという噂もあり、その為、道三は義龍を毛嫌いしているとも見られるからだ。ふたりの親子関係は最悪で、いつ争いが起きてもおかしくなかった。
「申すが良い」
「義龍が、弟二人を殺害したと」
「なんと」
信長は腕組していた手を解き、顎を撫でた。これも想定内の出来事であるので驚きはしなかった。
「父上はすぐ様、稲葉山城下を焼き払いまして御座います。そこで」
帰蝶は両手を床につけた。
「どうか、父上に援軍を」
「……」
即答しない信長に、痺れを切らしたのか、帰蝶は立って、信長の傍にゆき、そこでまた両手をついた。
「殿が、わたくしをお気に召さない事は存じております。二度も他家へ嫁いだ女を押し付けられたのですから、肌に触れるのも悍ましいとお考えでしょう。しかしそれは当然の感情。わたくしは愛情など求めませぬゆえ、どうか加勢をし、父上をお助け下さりませ」
これまで感情の起伏の全く見られなかった帰蝶が、額を床につける勢いで信長に懇願してきた。その時、信長は帰蝶の孤独を知った。道三の戦略の道具にされ、三度も結婚する事となったというのに、道三の命を救いたい一心で尊厳を捨てている。そんな帰蝶が哀れであった。
「お任せ下され」
そういって、帰蝶の肩を叩いた信長は良之を呼び、戦支度を命令した。
数日後、信長率いる織田軍は清洲城へ帰城した。帰蝶は信長を出迎えず、自室で仏壇に向かっていた。
信長は鎧直垂に、引立烏帽子を被った格好のまま、帰蝶の部屋に出向いた。部屋を閉め切り、侍女らを別室に置き、帰蝶は一人、自室に籠っていた。
「宜しいか?」
と声を掛け、信長は部屋に入った。仏壇に向かう帰蝶の背後に立ち、この度は、と話し出したのを帰蝶が遮った。
「わざと遅れたのでしょうか?」
「何の事で御座るか」
「陣所から動かなかったと聞き及びましたが」
「陣を構えた時点で、義龍は出陣していた。間に合わなかったのだ」
「すぐに軍勢を出す事もできた筈」
「其方はおなごゆえ、戦の事は分らぬ」
「父上は義龍に殺されました」
「残念な事である」
「他人事、、、」
帰蝶は淡々といしていた。背中越しなので顔は見えない。これ以上の言い合いは不合理だと考えた信長が部屋を出ようと、廊下に出た時、帰蝶が飛び出してきて、信長の背中に抱きついた。
「少しだけ、このまま」
声にもならない声で、帰蝶は訴えた。
あおいは、自室の縁側で見かけた仔犬を追っていた。部屋では動きやすい様にと、自分で縫った袴を履いていたので、比較的自由に移動が出来た。
「まてまて」
仔犬は実家で飼っていた柴犬に似ていた。物音に気づき、縁の下を覗き込んだ時は、キツネと勘違いしたが、キツネとは鳴き声が違った。智香とふたり、中腰で頭を下げて追っかけていたら、いつの間にか帰蝶の居室前廊下まで来てしまっていた。
「いたたた」
腰を叩きながら、折り曲げていた身体を起こすと、目の前に信長がいた。彼は罰が悪そうに、眉間を押さえている。驚愕して目を見張ると、信長の腰当たりに、女の両腕が絡みついていた。
「見つからないね」
いま身体を起こした智香が、あおいの背中にぶつかった。いつもならすぐに片膝をついて平伏を示す智香も、信長と帰蝶の抱擁に驚き、呆然としていた。
「失礼いたしました」
頭を下げ、あおいはその場を立ち去った。
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