第23話 生駒の吉乃、おんな達の争い

「可愛いお方で御座いますね」

吉乃は、丁寧に立てた茶を、縁側に運んでから、そういった。

小さかったが、良く整頓された武家屋敷(生駒邸)に、小綺麗な身なりの女が、息子と三人で暮らしていた。夫は戦で他界しており、二人の男児も無事に元服を終えていた。

女の名前は吉乃といい、あおいと出会う少し前から信長は、この女に会いに、生駒邸に通っている。

「可愛いことなど一つもない。あいつは世間の常識という物を全くという程、知らない」

「そこが、可愛らしいのでしょう?」

吉乃は小袖の袂で口を隠して笑うと、「少し妬けます」と付け加えた。

信長は咳払いをして茶を啜った。目は宙を彷徨っている。

昼間、鷹狩り帰りの火起請事件の後、無断で外出していた、あおいとバッタリ出会った事を、吉乃に話していたのだ。あの日、良之に、あおいを城に送るよう頼んだ信長は、清州には戻らず、吉乃の屋敷に来ていた。

「嘘ですよ」

信長より一回り年上の吉乃は、信長の扱いに慣れていた。母親の愛情に飢える信長の心を癒し、慰めてくれる存在だったのだ。

「話を変えよう」

信長は、縁側から座敷に移り、脇息に寄り掛かった。吉乃は茶碗の乗った盆を胸の前に丁寧に上げて、まるでからくり人形の様に音を立てずに歩いた。

「ご正室の帰蝶様のお里が、何やら騒がしいようで御座いますね」

盆を信長の手前に置き、吉乃は、信長が投げ出した足の傍に横座りし、扇子で風を送った。

「山城守様というお方の事、少し教えては頂けませぬか?」

「道三に興味がおありか?」

少しだけ顔を横に向け、流し目で吉乃を見た。

「ええ、大有りで御座います」

「ならば、話して進ぜよう」

「まあ嬉しい」

といって吉乃は拍手をした。

「斎藤道三という男は、元は山城国(京都市府木津川市)の出身で、名を松波某といった。いつの頃から、京畿を出て、美濃国の長井藤左ヱ門を頼った。扶持を受け、家来も付けられるようになったのだが、無情にも主を殺害し、長井姓を乗っ取り、松波は長井新九郎と改めた。それから、もちろん長井家とは争いが耐えなくなり、道三は美濃の守護、土岐頼芸(ときよりなり)に協力を依頼したところ、頼芸はすんなりと加勢した。頼芸には、次郎と八郎という息子がいたのだが、道三は次郎を娘婿、すなわち帰蝶の夫とし、頂戴し、折を見て毒殺。八郎には、残った娘を、これも帰蝶だが、後妻にと無理やり押し付けた。頼芸を稲葉山に住まわせ、八郎はその山下に住まわせて、三日なり、五日なりに一度は参上し、やれ鷹狩りに出掛けるな、やれ乗馬をするななど言い続け、籠の鳥にように扱ったのだ。とうとうある雨の夜、八郎は尾張を目指し馬で出奔したのだが、道三につかまり切腹させられた。当時大桑に居城していた頼芸のことも、道三は家老らに賄賂をつかませ味方につけ、大桑からも追い出した。それで後、頼芸は我が父信秀を頼り尾張で過ごすこととなったのだが」

信長は言葉を止めて、虚空を見上げた。この先の頼芸の人生を悲しむ様に、目をしばたたせた。


「その後、頼芸は越前朝倉隆景の庇護下となり、守護の座を取り戻したのだが、道三と隆景が和睦したため、守護の座を追われた。更に、道三と父信秀が和睦。織田家の後ろ盾を失った頼芸は再び道三により追い出された」

そして娘の嫁ぎ先である近江六角氏、続いて実弟のいる常陸国、次いで上総の国、土岐為頼、後に甲斐の国の武田氏に身を寄せる」

これは先の話になるが、信長による甲州征伐の際、病気により失明していた頼芸を発見、稲葉一鉄のはからいで美濃に戻るが、その半年後に死亡した。

「人というものは」

信長は苦い顔をしていた。吉乃は風を送る手を止めて、信長の素足にそっと触れた。

「土岐頼芸様のことで御座いますか」

「いや、道三である」

「道三?」

信長は身体を起こし、胡坐を組んだ。

「主人を切り、婿を殺すような悪逆は、自身の破滅を招く。昔なら尾張の長田忠宗、いまなら斎藤道三」

「恐ろしい舅殿で御座いますな」

「この様な話はつまらぬ」

「しかし信長殿、斎藤道三というお方、小さな罪を犯した者でも牛挽きの刑に処したり、或いは大釜を据えて、罪人の妻や親兄弟に火を炊かせて、罪人を煮殺したりと聞き及びますが」

「それが誠なら、実に冷酷な処刑方法である」

「恐ろしい」

吉乃は自分の身体に腕を回し、身震いをした。

「お気になさるな。其方には遠い方ゆえ」

信長がいうと、吉乃は安堵の溜息を洩らし、

「守って下さりますか」といった。

「無論」

信長は吉乃を抱き寄せた。引き寄せられる最中、吉乃は一瞬も信長から目を離さなかった。吉乃の大胆な大人の魅力に、信長は完全に心を奪われていた。


その頃、清州城では

「主の居ぬ間に、城を抜け出すなど、あっては成らぬ事です」

あおいは良之にきつく叱られたていた。

「ごめんなさい」

あおいは座ったまま、頭を下げた。

「でもね、良之」

「なんですか?」

良之は呆れたように息を吐きながら、答えた。

「もう二時間もこうしているのよ」

あっ!と良之は口に手を当てた。あおいの無断外出があまりに衝撃的だったので、時を忘れ、注意をしてしまっていた。しかもあおいは身重である。腹の中の子に何かがあれば、それこそ一大事だ。あおいの腹の子は、信長の最初の子である。場合によっては嫡子、すなわち跡取りの可能性もあるのだ。

「申し訳ありません」

良之は慌てて頭を下げた。廊下に座る智香は、足の痺れと戦っている。

「ところで殿は、お帰りですか。出来ればお会いして、謝罪したいのですが」

神社で見た信長の憤怒は、相当の物であると、あおいも理解していた。侍女である智香の処遇が心配だったので、出来るだけ早く、信長に謝りたかったのだ。

「いやっ、それはいまでない方が」

急にしどろもどろになった良之を、あおいは怪訝な表情で見ている。良之は信長が生駒邸に行ったことを、仲間から聞いて知っていた。

「早い方がいいと思うのです」

「しかし、その」

あおいは膝をうった。

「わかりました。わたしから殿の元へ参りましょう。それが礼儀ですものね」

早速、立ち上がり、足早に部屋を出ていくあおいを、良之は必至で止めたが、身体に触れる訳にはいかないので、なかなか止められないでいる。長い廊下の突き当りを左に曲がり、その奥に信長の居室があった。居室よりずっと手前右手に、橋のように架けられた外廊下がある。廊下の先は通常、外の世界と同じで、逆に、外の世界から、この廊下を渡って入る事は、良之の様な側近以外、基本男子禁制である。

その外廊下の手前で、あおいは足を止めた。侍女を大勢従えたが帰蝶が廊下を曲がって来たのだ。

白粉の臭いが、多くの人の打掛の間から溢れ出て来る。つわりは終わった筈なのに、小さな吐き気をもよおした。

「あーら、あおい殿」

帰蝶のすぐ後で、遥は甲高い声を出した。すると、すかさず志保も「あおい殿」と発した。

「その呼び方、お方様に無礼であろう!」

良之が怒鳴ると、帰蝶の両脇に立つふたりは、広げた扇子で顔を覆った。と思ったらクスクス笑い出す始末。

「佐脇、下がれ」

正室である帰蝶の言葉には逆らえない、

「お方様、お部屋に戻りましょう」

とあおいを促した。あおいも素直に応じ、三人が背中を向けた時、帰蝶が声を上げた。

「殿は城には居らぬ」

三人の足が止まる。嫌な予感が良之を慌てさせた。

「お方様、さあ参りましょう」

再び、歩き出そうとする三人に、今度は志保が、

「お屋形様は、生駒邸じゃ」城中に響き渡るような大声で叫んだ。

「生駒邸?」

振り返るあおいを、迎え撃つ様に志保らは、せせら笑いを浮かべていた。異常な雰囲気だった。彼女らの顔を見渡すと、皆一様に薄ら笑いを浮かべている。きょうの不祥事を彼女らは知っているのか?それにしても生駒邸とはなんなのかと考えていた。

「関わらないのが賢明です」

良之がそう呟いた。

「そうですね」

あおいが踵を返した時、帰蝶が口を開いた。

「何も知らぬ様じゃな、お気楽な姫様だこと」

「何の事で御座いますか?」少し、突っかかる様な口調になっていた。

「この世間知らずの姫様に、教えて差し上げよ」

「はい、奥方様」

帰蝶に一礼した志保は、大役を任されたとばかりに胸を張り、顎を上げた。

「生駒邸とは、お屋形様のご側室のお屋敷の事じゃ」

言いながら、あおいの前に進み出て、斜に構えた。

「側室?」

思い当たらない訳ではない。あおいは刺激的な臭いに弱い性質でなので、白粉は使用しなかった。時に妊娠してからは過敏になっている。時折、信長から白粉が香る。彼の衣服に、鼻を寄せて匂いを嗅いだ事もある。そういう時は決まって、信長は視線を彷徨わせ、意味のない一言を残し、部屋を出ていった。

「その吉乃というおなごに、お屋形様は大層ご執心なご様子。暇があれば、いやいや忙しい最中でも暇を作ってお出掛けになる」

「いい加減な事を申すな!」

あおいと志保の間に、良之は割って入った。

「この話がいい加減か、どうかは、佐脇殿がいちばん良くご存じのはず」

志保は打掛を翻し、身体を一回りさせ、良之の前に顔だけ残して立ち、海老ぞり気味に見ている。

「貴様、、、」

志保の無礼な振る舞いに、いまにも刀を抜きそうである。すると帰蝶が、

「佐脇、殿中を血で汚す覚悟はおありか?」

「これは何の茶番でしょうか奥方様」

「茶番ではない」

無表情で語る帰蝶に、心の動きは見えなかった。

「苦労も知らず、護られて暮らすお姫様に、現実を教えてあげたいと思う親切心じゃ。それに嘘は申しておらぬ」

そこで遥がしゃしゃりでた。

「奥方様は、あおい殿の勘違いを正して差しあげようとなさっておいでじゃ。あおい殿は、自分だけがお屋形様に愛されていると勘違いしている。その勘違いが過ぎて、きょうも勝手に城を抜け出す始末。嫌気をさしたお屋形様は、生駒屋敷に逃げ込まれたのだ。いまごろは、さぞ仲睦まじくお過ごしであろう。なんせ、吉乃殿はお屋形様のご寵愛を受けておられるのだから」

「遥、あなたも偉くなったわね」

それまで黙って聞いていた智香が口を挟む。

「偉くなったのよ、智香あなたよりもね」

遥は前に進み出た。

「それより智香、あなた生駒邸の吉乃のこと、ずっと前から知っていたわよね。知っていたのに、なんで黙ってたの?それで親友っていえるの?」

「それは」

智香は口籠り、俯いた。

「大丈夫だよ」あおいは、智香の肩にそっと手を掛けてから正面を向いた。

「それで」

遥を真っすぐ見据えている。

「それが何なのよ遥」

「それがって、悔しくないの?大好きな信長に、女がいたんだよ。あんた以外、城中、いや、国中の者が吉乃の存在を知ってたんだ。知らなかったのはあんただけだよ」

次第に遥の声が大きくなる。令和の言葉遣いと、信長を呼び捨てにしている事にも気づいていない様子だ。

あおいは大きく息を吸い込んだ。

「悔しい?何を戯けた事を。殿は織田家の当主ですよ。おんなの一人や二人、いや十人や二十人いたところで、不思議な事はあるまい」

そして視線を帰蝶に転じた。

「帰蝶殿、側室如きに目くじら立てると、寂しい女に見られますよ」

「寂しい女?」

帰蝶は、殆ど口を動かさないでそういってから、手にしていた扇を真っ二つに折った。

「おのれ、わたくしを寂しい女といいよったわ。許さぬ、絶対に許さぬ。お前にも真の孤独というものを味合わせてやるわ」

帰蝶は真っ赤に燃やした目で、あおいをじっと見つめていた。まるで呪いをかけられているかのようで、あおいは身動きが取れなくなっていた。

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