第22話 揃った4人の事情~火起請裁判~
それから数日後、あおいは自分と智香の小袖をしつらえる生地を購入するため、城下に来ていた。やわらかな風が通る、心地の良い日だった。良之は信長の鷹狩りの共をしていたので、ふたりきりの外出である。
城下まで徒歩で出ると、戦国時代とは思えない治安の良い町の賑わいがあった。町外れまで歩いた頃、あおいに疲れが出たので、神社の境内にある拝殿の脇の石に腰かけて、持参していた水を飲んだ。
喉を過ぎる水の美味しさに、あおいは思わず目を閉じ、顎を上げた。神社の御神木から漏れる光が、あおいをきらきらと照らしていた。彼女はとても色白だった。その肌はきめが細かい。上質な木綿の様に、しっとりとしている。見るからに繊細な肌は、上を向くだけで、首筋の血管が透き通って見えるくらいだ。ふっくらと小さな唇は、紅をさしていなくても艶やかに潤っている。閉じた瞳のまつ毛の長さが際立っていて、それが妖艶でもあった。
孝一は、その様子を物陰から見ていた。盗み見する気はなかったが、あまりにも、あおいが美しすぎて、声を掛け損じてしたのだ。
智香に紹介された秀吉に気に入られた事で、信長の馬廻衆の一員になれた。当然、信長とも面識がある。声を掛けられた事も数回あった。秀吉が住居を用意してくれ、割と落ち着いた生活をしていたところに、遥が現れた。仕事も住むところもないという遥を無碍に断る訳にも行かず、しばらくの間ならと遥を住まわせた。直ぐにその事は智香の知るところとなる。最初の頃は智香も遥との再会を喜んでいる様に見えた。しかし智香が秀吉やねねとの知り合いだと知った遥が、執拗に信長の侍女になりたいと懇願してきたので、次第に智香は、遥を避ける様になった。しかし遥は諦めなかった。毎日、智香を付け回し、離れない。遂に根負けした智香は、ねねに遥を会わせたのだ。
信長の側室と噂され始めた、あおいという女の存在を、智香は早くから耳にしていたし、のちに孝一から聞いて、確信を得ていたので、清州城での勤めが決まった時は飛び上がるほど嬉しかった。遥も一緒という点は不安だったが、それでもあおいの傍に行けるのならと神に感謝を告げた。当日になり智香はあおい付きの侍女に大抜擢だと、ねねから聞かされた。ねねは勘の良い女で、言葉にはしないが、智香が、現代とは違うところから来た人間だと気づいている節がある。これまで幾度となく、智香はあおいの名を口にしていたので、ねねは智香を、あおいの傍に置おいてくれたのだろう。
遥は信長の側室の座を狙っていた。なんなら正室も夢ではないと思っている。あおいの存在があるから止めとけと何度、孝一が説得しても、遥は考えを変えなかった。
「なんで、私じゃなく、あおいなのよ!」
が彼女の口癖になっていた。そもそも孝一は、遥に恋愛感情などなかったが、若い男女が一つ屋根の下に暮らしているのだ、間違いも起きる。しかしそれは互いに割り切った関係だ。遥もそのつもりだと孝一は疑わなかったが、しかし最近になり、
「令和にも帰れないし、もう結婚しちゃう」と冗談めかしていう事があり、例え冗談であっても、それが孝一の負担になりつつあった。
「あおい、智香」
孝一が声を掛けると、特に驚いた風もなく、ふたりは微笑んでいた。
「なんだか孝一に会える気がしたの」
智香はぴょんぴょん飛び跳ね、孝一の手を引いて、拝殿の板敷に座らせた。
きょう、城下に来た本当の理由は、孝一に会う為でもあった。城から出たら、孝一からコンタクトがある予感がしていた。信長は鷹狩りに出掛け、良之も不在である。これ以上の機会はなかった。
しかし信長に隠れて孝一に会う事はリスクが伴う。普段、穏やかに過ごす事の多い信長だが、時に酷く人を警戒し、疑心暗鬼になる。そうなると手が付けられない。
あおいが隠れて男に会っていたと知ったら、信長の面目は丸つぶれだ。なので例え見つかっても偶然だと、自然を装う気でいた。城下なら、知り合いに出会う事は、そう不思議ではないと思ったからだ。しかし、主の居ぬ間に、異性と会うことは、武家社会では法度だし、あらぬ噂の種になる。すなわち、主の顔に泥を塗る所業だ。しかし平成生まれの、あおいも智香もそこまで深刻に思っていなかった。
きょうは孝一に会い、佐々成政の事件の真相を詳しく聞くつもりでいた。
「偶然だね、良かった会えて」
この間よりも、孝一の肌艶が良かった。健康なのだと知って、あおいは一安心していた。
「本当に、良かったよ」
「わたしたちが来ること、事前に知っていたの?」
いやっと孝一は首をふり、「忍者の友達がいるんだ」とあおいにいった。
「忍者?」
ふたりは顔を見合わせクスクス笑った。
「なんだよ」
最悪の事態を考え、孝一は智香に寄って座っていた。あおいは石に腰掛けている。
「この時代忍者は珍しくないよ。ただ信長は忍者を嫌っているから、雇ってないし、例え、雇っていたとしても出会えないか」
「そうね」
あおいはいって、「忍びの者は薄気味悪いから嫌いだだといっていたわ」
「それより」
孝一は身を乗り出して、あおいの腹を見ながら、自分の腹を摩った。あおいも腹を両手で撫でると、
「うん、順調に育ってくれている」とほほ笑んだ。
腹の赤ん坊を撫でるあおいの姿は、母親そのものであり、美しかった。あおいの妊娠を聞いて複雑な思いの孝一であったが、この姿は、雑念を吹き飛ばしてくれた。あおいがしあわせなら、それで良かった。
「それより、あおい、あの話、孝一に聞かないの?」
「ああ、そうそう佐々家の話なんだけど」
時間は刻刻と過ぎてゆく、信長が帰る前に自分たちが帰宅する必要があった。
「佐々家のことも知り合いの忍者に聞いたの?」
「そうだよ」
孝一は一度、周囲を警戒してから話し出した。
「佐々成政という武将は信長の側近で俺と同じ馬廻組に属しているのだけど、その成政の一族で、家臣の井口太郎左衛門という者が、信長の暗殺を企んでいた。蛇替えの日、帰りに信長は城に寄るだろうと確信し、信長の暗殺を実行しようとしたが、信長は現れず計画は経たれた」
「なんで殿を殺そうと」
「織田家の家督争いだ」
「もうお家騒動は落着したんじゃないの?」
「いや」
といって孝一は頭をふった。
「家督争いは終わってない。だけど、成政自身はこの計画を知らないらしい。成政の一族の問題だ」
「そう」
家督争いは収束したと思っていた。信長からもそう説明されていたのに、未だ燻っているのだと知って、あおいは身震いした。
「妊娠中だから、こういう事は気にしない方がいい。後は男の戦争だから信長に任せればいい」
話していると、なにやら男たちが揉めている声が響いた。
「なんだろう、喧嘩かな?」
智香が鳥居寸前まで行った時、騎馬の集団が通り過ぎた。その中に信長の姿が見え、姿を捉えた孝一は素早く、拝殿の後ろに隠れた。
「何事じゃ!」
鷹狩りの帰り道、騒ぎを聞きつけた信長が駆けつけた。
「いえ、大した事では御座いませぬ」
そういったのは池田恒興である。恒興の母親が信長の乳母なので、ふたりは乳兄弟であった。その為、最近の恒興は、信長の権威に驕り、悪い噂が目立っていた。
「大した事ではない?ではなにゆえ、弓、槍、武具を携えて大勢で集まっておる。事の詳細を話せ」
恒興の腕を掴み、信長が迫ると、争っている双方が同時に話出した。
事の詳細はこうである、織田信房の家来の甚平と、恒興の家来の佐介という男がいた。
ふたりは格別に仲が良っかった。その甚平が年貢を納める為、清州へ行った留守中のこと、佐介が甚平の家に盗み入った。が甚平の女房が目を覚まし、佐介に組み付いて、佐介の刀の鞘を取り上げたのだ。
甚平は、この事件を清州に訴え出た。すると守護から「火起請で決着をしろ」と言われた。
そしてきょうが火起請当日、奉行衆が立ち並ぶ中、双方の立会人が出て、裁判が開かれたのだが、実権を握る恒興が、家来の佐介を庇い、証拠となる鉄を奪い取り、立ち騒いだのだ。
ー火起請とは、熱した鉄を持たせ、持てなかった者の申し立てを虚偽と判定する裁判ー
この話を聞いていた信長の顔色が見る見るうちに変わり、こういった。
「最初に鉄を焼いた時と同じように焼いてみるが良い」
信長にいわれるがまま、恒興は鉄を赤くなるまで焼き、
「最初と同じように焼きました」と信長に言上した。
床几に腰かけていた信長は立ち上がり、
「わしが火起請の鉄を無事に受け取る事ができたら、佐介を成敗する。恒興、その様に心得よ」
そういうと、信長は焼いた斧を掌に受取り、三歩あるいて棚に置いた。
「見た通りだ。佐介を成敗せよ」
信長の命令に従ったのは良之であった。抜いた刀を大きく振り上げると、躊躇なく佐介に振り落とした。
人形の様に、地面に崩れる血まみれの佐介の身体を、神社の拝殿から見ていたあおいは、恐ろしさの余り腰の力が抜け、姿勢を崩してしまった。後ろ手に石に手を掛け、もう片方の手で口を塞いだが、物音に気付いた一同が一斉にこちらを向いた。
拝殿の後ろに隠れている孝一は、どうする事も出来ず、地べたに座り、額を抑えていた。まさか、信長が、あおいを手に掛ける事はないと信じているが、勝手に城を抜け出した罪を、智香に着せられる可能性は十分にあった。その時は自分が智香を助けようと、腰の太刀に手を掛けた。
「お方様」
良之がつぶやく様にいった。あおいの存在を知らない者も、だいたいの状況を把握したのか、殺された佐介の遺体の移動などに、行動を移した。
信長は、ただ茫然と立っていた。幻でも見るような目で、あおいを見つめている。ふと我に返り、早い足取りであおいに近づいた。石の上に置かれた手に力が入り、自然と上半身が仰け反った。信長は真っすぐあおいに向いていた。眉間にしわを寄せ、少しだけ頭を捻った。
「ここで何をしておる」
そう問うのがやっとの様子だ。腰を曲げ、両膝に手を置き、信長は肩で深呼吸をした。そして、
「良之、ふたりを城へ連れて帰れ」といった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます