第21話 妖怪大蛇を捕まえろ!
後日、医者の診察を受け、あおいの妊娠が判明した。
「あおい、良かったじゃないの」
智香は自分のことのように喜んでいた。
「本当に、そうなのかな」
しかしあおいの反応は薄い。
「どういう意味?」
「だってわたし、結婚している訳じゃないし、相手は奥さんがいて…」
「それは古い考え方よ」
「古い?」
「いや、新しいかな?」
「…」
「まあ、ともかく。お腹の中にいる命を大切にしないと」
「ひと騒動、起りそうな気がする」
「たしかにね、志保が騒ぎそう」
「気が重い」
つわりの影響か、あおいの体調はあまりよろしくなかったが、かといって昼間から横たわることが憚られたので、脇息にもたれ掛かるようにしていた。
「わたしね、智香。もし、わたしの妊娠が原因で織田家に騒動が巻き起こるのなら、お城を出てもいいと思ってるの」
その時はといい、あおいは姿勢を正し、智香の手を取った。
「一緒にこの子を育ててくれない」
「うん、いいよ。一緒に育てよう」
智香が、何度も頷いていると、「何を戯けた事を申しておる」と信長が入って来た。
「腹の子を連れて、何処に参るというのだ、あおい」
「それは」
座る位置を変えようとすると、そのままで良いと信長はいった。
「何も案ずることはない、お前は腹の子を無事に産む事だけに専念したら良いのだ」
「そう殿は、簡単に申されますが、てっいうか、妊娠しているとだれに?」
「廊下ですれ違った医者に聞いたのだ。それがなんだ」
「そうでしたか」
あおいは一度、上体を起こしたが、また脇息に寄りかかった。
「怖がる事は何もない。わしに任せたら良いのだ。智香も要るではないか」
妊娠を知った信長の反応を少し恐れていた部分があったが、信長は呆れる程、あっけらかんとしている。そしてこの信長の言葉は、あおいを大いに安心させたのだが。
ひと月程が経過していた。
つわりの症状も軽るくなり、安定期にも入っていたので、信長の提案で、あおいは久しぶりに外出していた。
信長の家臣、佐々成政の居城の近くに、大きな堤があり、その東側に「あまが池」という大蛇が棲むと伝わる池がある。その噂を聞きつけた好奇心旺盛な信長が、あまが池に行ってみたいというので、出掛けて来たのだ。
平坦な芦原が続く堤防を抜けて、池畔に大きな布を敷き詰めた。その上にあおい手製の真綿を詰めた座布団を二枚置き、そこに智香と座った。
この日、信長は出会った頃の様に、かぶいた恰好をしていた。
「大きな池だな」
腰に手を置いて池を眺める姿は、少年の様に生き生きとして見えた。
「大蛇を見たという話しを、もう一度してくれ良之」
同行した良之は、信長のすぐ後ろに片膝をついた。
「一月中旬の事であります。安食村の郷に又座衛門という男がおりまして、雨の降る夕方、堤を通りかかったところ、太さ、一抱え程もありそうな黒い物を見たそうです。胴体は堤の上にあり、その首は堤から伸びて来てもう少しであまが池に達する所で御座いました。大蛇の顔は鹿の様で、目は星の様に光輝き、人間の手の指の様に分かれた舌は真赤で、光っていたと」
「薄気味悪い生き物だな」
池の方を向いていた信長は突然、あおいに振り返り
「あおい、大蛇を見てみたいか?」
横座りの足を正座に直して、あおいは信長を見た。
「実在するのであれば、是非見てみたいものですけど、日の高いうちには表れないのでは?」
「なにゆえ?」
信長は怪訝な顔をした。あおいは智香の手を借り、そっと立ち上がり、おぼつかない足取りで草履を履いた。そして信長の隣に並び、
「オドロオドロしい者とは、だいたい暗い時に出現する物なのですよ」
「そういう物かのう」
あおいは良之に向いた。
「良之、大蛇が現れた日は、夕刻だったのでしょう?雨が降っていた一月となると、かなり薄暗くなっていると思うわよ、ねえ?」
「あっ、まあ、そうで御座いますね」
良之は返答に困った様子である。
「夜まで待つ気はせぬのう」信長はしばし間を置いたが、突如、手を打った。
「そうじゃ!池に潜って蛇を捕らえれば良い!良之、農民らに伝えよ、すぐ様、蛇替えを致すゆえ、桶を数百持ち寄るようにと」
「いま、すぐにで、御座いますか?」
良之は目を白黒さている。
「いますぐじゃ」
一時間ほどすると、数百の農民と数百の桶が池の端に並べられ、池の水抜き作業が二時間くらい行われた。池の水は七割程減ったが、それ以降は、いくら搔き出しても変わらなかった。
「これでは埒が明かぬ」
信長はいうと、徐に脇差を口に加え、池に潜ってしまった。
あおいの止める間もない事だったので、智香とあおいのふたりは池の端すれすれまで行き、信長の位置を探ったが、見つけられない。
「お屋形様は毎日、水練をしているから大丈夫よ、あおい」
「そうだけど、本当にあんな気持ち歩い顔をした大蛇が存在したのかな。しかもこんな汚い水に潜んでいるなんて、ここに飛び込む殿も物好きだわ」
「存在しないよ」
男の声であるが、良之ではない。ふたりは顔を見合わせ、ゆっくり声の方を向いた。
「孝一!」
思わず叫んでしまい、ふたりは身体を芦の影に潜めた。多くの人が池端に集まっていたので、他者に気づかれる事はなかった。幸い、良之も馬の様子を見に、堤を上がっていた。
「久しぶり」
孝一は地べたに片膝を上げた格好で座っていた。顔は日焼けし、男らしさが増していた。人懐い笑顔は昔のままだ。
「孝一なの」
智香は飛んで行って孝一の腕にしがみついた。信長の馬回衆として働いているので、近くにいる事は知っていたが、こうして顔を合わせると胸が熱くなる。
「元気だった。音沙汰ないから心配したのよ」
智香の問いに、孝一はうんと頷いて、彼女の頭を撫でた。
「時間がないから、早く言うよ」
周囲を見渡した孝一の顔は真剣だった。
「この後、信長は、佐々成政の城に行くと言い出すが、絶対に行かせてはダメだ」
「なぜ?」
というと、あおいは智香を見て、そしてまた孝一に向き直った。彼は眉尻を下げ、不安な顔をしている。
「佐々家で、信長の暗殺計画がある」
えっ、という声にならない声を出して、あおいは両手を胸においた。
「とにかく、行かせるな」
そう孝一が言った時、鋭い光があおいの目を差した。眩しさに目を閉じ、片手で光を遮り、薄目を開ける。
驚いたことに、あおいの視界を遮った鋭利な刃の先は、孝一の背中を突いていた。
「貴様、何者?」
孝一に刀を突きつけているのは良之である。
「やめなさい」
あおいが立ち上がると、孝一も静かに立った。背の高い孝一を少し見上げる様にして、良之は刀の柄を持つ手を、両手でしっかりと握った。危険を感じたあおいは良之の腕を掴んだ。
「良之、この者は、ただの幼馴染なの。怪しい者なんかじゃない。それに、殿の馬廻組に所属していているのよ」
「その馬廻が、なにゆえここにおるのじゃ」
「農民が祭りの様に騒いでいたので、気になり寄ってみただけで御座います。そこに、偶然お方様がいらして、ただ、それだけで御座います」
孝一が話しいている間、あおいはずっと良之の視線を追っていた。少しでも目を離すと、孝一が切られてしまいそうな気がしたからだ。
あおいは良之の名を呼んで、ゆっくり頷いてみせた。良之は刀を収めたが、納得はしていない様子である。
「しかし、この様に忍んで、お方様に会いに来るのは不自然で御座います」
その時、良之の目に、池から上がって来る信長が見えた。
「この場をお屋形様に見られでもしたら一大事である。きょうの所は立去れ、しかし二度とこの様な事はないように」
「忝い」
孝一は一礼してその場を走り去った。
「大蛇らしき物はいなかった」
ずぶ濡れの身体を、智香から差し出された手拭でふき取ると、信長はあおいの足元に座った。池を見ながら首を振っている。
「殿、もう諦めましょう?大蛇なんて気持ち悪いし、手伝っている農民も大変ですしね」
農家の者たちは、見る限りでは楽しそうにはしゃいでいたが、それぞれに仕事があるだろうと思い、あおいは帰る事を勧めたが、信長は不満足そうだ。
「もう一度だけ、潜るか。のう良之」
信長は良之を見た。いきなり振り返って自分を見る信長に「わたし」と良之は自分を指さした。
「良之、お前泳ぎは得意な方であったな、入って大蛇を探してこい」
「殿、もう止めましょう。良之だって大蛇のいる池に潜りたくないないでしょう。汚いし」
「お方様、私なら大丈夫で御座います。戦に比べれば、こんな事、お遊びの一環」
そう言いながらも、渋い顔つきをしている。芦に隠れ、袴を脱いで身軽になると、良之は意を決し顎を上げた。脇差を口に挟み、足から飛び込んだのだが、結果、大蛇を見つける事はできなかった。
「仕方がない」
大蛇を生け捕る事を諦め、信長は帰り支度を始めた。やっと帰れる。あおいが胸を撫でおろしたのも束の間、
「成政の城へ寄る」
と孝一の助言通り、信長は成政の城へ寄ると言い出した。あおいは慌て、馬を信長の隣に寄せて、手綱を引き寄せた。信長の馬は未だ歩き出していなかったので、容易い事であった。
「わたしが身重だということを忘れていませんか?もう疲れました、一旦、帰りましょう」
正直、疲れは感じていなかったし、体力も残っていたが、孝一の助言を無視できない。きっと孝一は何か根拠があるからこそ危険を冒しても、池端まで来てくれたのだから。
「であるな。すまなかった、清州へ帰ろう」
信長は素直に聞き入れ、一同は清州へ帰城した。
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