第20話 久保遥の登場
稲生原合戦後、湯殿で身体を清めた信長が、あおいの部屋に来た。頬にかすり傷があるだけで、他の負傷は見当たらない。
さっぱりと髪を茶筅髷に結い上げ、彼女の定位置である上座に座った。とはいっても6畳ほどの小さな部屋なのだが。
「暑いなあ」
今夜は蒸していた。あおいは扇で信長に風を送る。
「ご無事でなによりです」
「戦は未だ終わっておらぬ。敵方は那古野、末盛に籠城しておる」
運ばれた膳を食す前に、冷たい麦湯を信長は飲んだ。喉元を通る麦湯に合わせ、咽喉が上下する姿が清々しかった。
「母も、信行と一緒に末盛に住んでおる。降伏する気はないと見える」
「これから、織田家はどうなるのですか?」
「信行の命が惜しければ、母は命乞いをせねばならぬな」
「命乞いがなければ」
あおいは風を送る手を止めて、信長を見た。天涯孤独に近い信長が、弟を殺すことなどあるだろうかと思った時、一瞬、秀孝の死が頭に浮かんだ。信長と信行の報復を恐れ、城を捨てて逃げたとされる信次を、最近、信長が守山城主に復活させたばかりだ。一体どうして。あの時、信行が放った言葉の真意は。
「どうなさるのですか?」
信長は脇息に肘を乗せ、態勢を崩して斜に構えた。盃に注がれていた酒を口につけ、
「ならば、殺すまでよ」
と目の端であおいを見て、これまで聞いたことのない低いトーンで答えた。
「実の兄弟なのに?」
「その実の兄弟に殺されそうになったのだ」
「ならば秀孝殿は?」
そういうと、信長は眉間に皺を寄せて、あおいを見た。
「あれは事故死だ」
「事故ではありません。信次様のご舎弟に殺されたのです。わたし、ちゃんと見てましたから」
「それと信行の悪行と、何の関係があるのだ」
「いいえ、それは…」
「もう良い、ここにいても気が重くなるだけだ」
信長は手にしていた盃を襖に投げつけ、座敷を出て行ってしまった。
信長の母、土田御前と信行が清州城に来ていた。
今回、信行が行った謀反を許すと、信長が認めた事への礼だ。柴田勝家を伴い、やって来たのだ。
信行と土田御前の訪問は、あおいには知らされていなかった。あの夜以降、信長があおいを訪ねて来ることもなく、信長に関することの一切を、見聞きすることがなくなった。
きょうは天気も良かったので、あおいは城の庭に出て、池の鯉に餌を与えていた。もちろん、智香も一緒である。ここに移り住む以前から飼われていた鯉は、常に腹を空かせていて、餌に群がる姿はピラニアを連想させる。ふたりは笑い声を立てながら、愉し気に餌をあげていた。
すると、昼食の用意のある座敷に通される土田御前と信行、帰蝶らが廊下を渡ってきた。土田御前とは、信秀の葬儀以来である。
「あっ、まさか」
土田御前と信行が清州城に居る事に驚いたあおいは立ち上がり、頭を下げた。
「あら、其方は」
土田御前は、背も高く、気高い女性であった。墨染の着物を纏っている。あおいは、何も答えず頭を垂れていた。智香は地に片膝をついている。智香のこういう姿は、あおいの胸を締め付けた。
「あの者は、ただの流れ者にござります」
といったのは志保であった。
「流れ者?」
土田御前は、信行を見てから、緩くあおいを指さした。
「流れ者だなんて」
そういったのは帰蝶である。
「あおい殿、こちらへ来て、御母上にご挨拶なされよ」
あおいは俯いていた。
「さあ、あおい殿、ご側室なのだから」
その声は、帰蝶でも志保でもない。あおいは顔を上げ、声の主を見た。
ーあれは、遥ー
智香も顔を上げている。清州城で働いている遥とは、これがはじめての対面だった。智香は彼らと同じ長屋住まいだが、あおいの侍女になった直後にお堀の中に新設された長屋に越していたので疎遠になっていた。それにしても、全く遥の姿を見ていない事は疑問であったし、ちょくちょく、ふたりの話題に上がっていたのだが。その遥がいつの間にか、帰蝶の侍女に昇格していたとは。
「側室と申されたか?」
土田御前が遥に向いた。遥は相変わらず美人だったが、刺々しさが増していた。智香とあおい、ふたりは顔を見合わせた。
「ふーん」といった風に、あおいを眺めた土田御前は、「信長が好きな風貌をしておる」といった。
「そうで御座いましたか、殿は、あの様なおなごを好まれるのですね。わたくしは疎まれる訳じゃ」
帰蝶は笑ってそういったが、あおいを見る眼つきは険しかった。
「其方は正室であろう、なにも気にすることはない。どうじゃ、堅苦しい挨拶も終えた。昼食の用意があるらしい。あおい殿と申されたか、こちらへ参れ」
あおいは首をふり、後ずさりした。すると信長が姿を見せた。
「良いではないか、あおい。心細いのなら、智香も一緒に飯を食おう」
通された座敷は割とこじんまりしている。日の通りも悪く、薄暗い。夏場でもひんやりとする程である。
信長と帰蝶は上座に。土田御前が向かって右の列のいちばん奥。隣に信行、柴田勝家、津々木蔵人の順。
その反対側に、あおい、智香と並んだ。志保と遥は外で待機するよう、信長に命じられたので同席していない。
あおいも、できれば同席したくなかった。この様な席は気後れするからだ。
信長は出された膳を黙々と口に運んでいた。日頃から食は細い方だから、きっと全ては食べ終えない。帰蝶はゆっくり、おしとやかに食を進めている。
智香は、どれから食べようか迷いながら、楽しそうに食事をしていた。比べ、土田御前や、信行、お付の者は、膳にひとつも手を付けていなかった。
「毒など、入っておらぬ」
ぶっきらぼうに信長がいった。
「その様な懸念はない」
土田御前はいってから、あおいの膳を見て、「あおい殿も進んでおらぬ」といった。
「あっいえ」
全てが山盛りに盛られている。米を一掴み摘まんで、口に運んだ瞬間、吐き気を催した。
一同の視線を浴びている。食べたくなかったが口に含んだ。
「美味しい」というのが精一杯であった。吐き気は止まらず、自分の膳に毒を盛られたのかと本気で思った。
「如何した?」土田御前に聞かれ、
「なんだか、熱があるようなのです」
本当の事だった。気分が優れないのは、緊張のせいだと思っていた。
「無理をしてはならぬ。部屋に戻るが良い」
信長の言葉に甘えて、部屋に戻ることにした。智香はほっぺいっぱいに食べ物を詰めた状態で、あおいを見ていた。自分の鼻を指さしているのは、未だ此処で食べていたいという意思表示だろう。
「其方」
土田御前は、あおいと信長を見比べた。そして、ふふふと微笑んだ。
「子を宿しておるのではないか?」
部屋の空気が凍り付いて見えた。妊娠の事は、それとなくあおいも気づいていた。ここ三か月生理が来ていない。しかし、智香以外の者へ、妊娠を相談することは出来なかった。理由は、信長と帰蝶の間に子がないからだ。婚礼から信長が帰蝶の部屋を訪ねている様子は見られなかったので当然である。
そういった中、自分の妊娠が城中に与える影響を思うと。とても悩んだ。家督争いの真っ最中にいる信長に伝えることも躊躇った。
「あおい、身籠っておるのか?」
信長は箸をおいて、あおいの顔を凝視した。隣の帰蝶の箸は止まっている。目線は真っすぐ正面を向いていた。
「あおい」もう一度、聞かれた。
「わかりません」そう答えるのがやっとであった。
実際、妊娠が事実かどうかもわからないのだから。
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