第19話 稲生原合戦 織田弾正忠家の意地

朝から雨が降っていた。

戦国時代は、昭和の研究では、小氷河期だったという仮説もある。その説を証明するかのように、真夏と呼ばれる季節でも、肌寒い日々も多かった。

加えて雨降りという天候では、打掛を腰に巻くくらい、きょうは寒い日だ。


秀孝事件以降、信長と、弟信行の関係は更に悪化していた。信次の城は、信行の焼き打ちにより、裸城となったが、織田信次の家老衆が差配して守っていた。信行方は、柴田勝家を筆頭に、守山城を包囲、信長も守山城を包封鎖していた。その頃、信長の一番家老の林秀貞、その弟、柴田勝家が、信行擁立を申し合わせ、信長への逆臣を抱いているという噂が広まっていた。それを信長は、「面白い」といい、腹違いの兄信時とのふたりだけで、清州から、那古野城の林秀貞に会いに行った。

「兄上、絶好の機会です、信長に詰め腹を切らせましょうぞ」と林の弟はいったが、林は躊躇した。

「三代に渡って恩恵を受けた主君を、恥知らずに、ここで手にかけて殺すとは、天罰が恐ろしいではないか。どうせ、信長は近いうちに、迷惑な事をするに決まっている。今は、切腹させないでいよう」

そういって信長を帰したが、一両日過ぎて、林は信長への敵対を明らかにした。


「荒子城と、清州城の間を遮断したらしいよ」

雨音を聞きながら、智香と並んで縁側でお茶を飲んでいた。智香はまるで、芸能人のスキャンダルでも話す様に、何の危機感もなくそう告げた。

「簡単そうに言うけどね、そんなに悠長なことじゃないのよ」

眉根を寄せて、あおいはお茶を啜った。

「荒子に限らず、米野、大脇も敵になってしまったし、荒子城には、利家がいて、良之だって関係してるのよ」

「気にすることないよ」

智香はにこにこと笑っている。

「なんで気にすることないの?」

あおいは少し、むっとした。湯飲み茶碗を膝の上で摩りながら、降りしきる雨を見上げていたが、智香の次の言葉に息をのんだ。

「織田信長を知らないの?あおい、本能寺の変までは死なないじゃない。忘れちゃったのかな?」

本能寺という呼称を聞いたのは、戦国に来て初めての事であった。心臓の鼓動が耳に伝わる程、心拍が早まった。割れる様に頭が痛い、手元の茶碗を縁側の外に落とし、それは踏み石に当たり、真っ二つに割れた。

「あおい、大丈夫?」智香が背中を摩っていると、信長がやってきた。

信長は布団を敷く様、智香に命じ、自らがあおいを寝かせた。智香が水屋から桶に入った手拭を持って来た時は、あおいの動悸も治まっていた。

「何があったというのだ」

額と首筋の大粒の汗を、信長は拭いてやっていた。

「気分はどうだ?」

「少し、眠れば大丈夫」

あおいは瞼を閉じたままで、そういった。

「良く、あることなのか?」

「いいえ」唇だけ動かして、首をふった。

「熱はないようだが、少し休んだ方がいい」

「そうですね。殿はいろいろとお忙しいので、お気遣いなくね」

「ん…うん」

信長が家督争いで多忙なのは事実だが、実はこの頃、数年前からの顔見知りで、最近夫を戦で亡くした生駒の吉乃という女に会いに行くようになっていた。そういったことが、あおいの体調不良の原因ではないかと信長は思っていた。しかし当のあおいは、その事実を知らない。

「いまは大変な時ですから、どうかどうか、わたしの事などお気になさらず」

体調が戻ったので、あおいは上体を起こし、智香を探した。

「智香は長屋へ帰らせた」

「どうして?」

未だ昼過ぎである、智香の帰宅時間ではないので、不思議に思ったが、きょうは自分が城に居るので、智香を帰してやったのだと信長はいった。敵方により、道が遮断されてしまい、外出は困難である。

「そうですか」肩の力を抜きながらいった。

「わしでは不満か」信長は笑っている。実兄と、実母、織田の家臣団を相手の戦は心労も大きいのだろう。頬の肉が削げていた。


数日後、柴田勝家が兵千人、林方は手勢七百人ばかりで信長勢に向かって攻めてきた。対し、信長勢は総勢集めても七百人しかいない。絶対的に不利な状況であったが、いざ戦になると形勢は逆転した。柴田に手傷を負わせ、柴田の兵は後方へ退き、信長の前まで押し出された兵たちは、織田信房、森可成ら中間衆四十人程と対峙した。信房、森可成らへ、双方の兵が掛かり合い、もみ合いになっている所に、信長が突如、大声を上げた。

「愚か者が!大将首は此処にあり。出世を望むのなら、取りに来い」

敵方の大将と謂えども織田家の侍衆である、当主である信長の恫喝に、兵の動きが止まった。信長の威光に恐れ立ち止まり、遂に逃げ崩れたのだ。

その後、信長は林勢に攻めかかり、信長自身の手で、林秀貞の弟通具の首を取った。


戦が終わり、信長は清州城に戻った。少し前に、信長勢が優勢だと連絡を受けていたが、数で劣る信長勢のことを、あおいは心配していた。智香に至っては、「平気、平気」と相手にしてくない。あおいは、本能寺という言葉を聞いた時の衝撃と、身体に起きた不調を覚えていなかった。本能寺という言葉事態が抜けて落ちたのだ。ただひとつ、

「夢を見たのよ。学校の教室のだったのかな?黒板と、先生の顔がぼんやり。あの先生、だれだったかな、あまり好きじゃないような」

智香はその話しを聞いた時、何か本能寺の変との繋がりがあるのではないかと思ったが、またあの様な現象を起こさない為にと、彼女は敢えてあおいの前で、本能寺という言葉を封印した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る