第18話 織田秀孝の悲劇
それから数日が経った、良く晴れた日の事。あおいは、智香と共に松川の渡し(庄内川)に出掛けた。あおい同様、智香も乗馬が得意だったので、ふたりは騎馬で出掛けた。昨晩、突然思い立ち、朝から弁当を拵えたのだ。良之佐脇良之、藤八郎)から、釣りの話を聞いていたので、釣り具も持参している。釣った魚は河原で焼き、バーベキューを楽しもうと考えていた。
目的地に到着すると、信長の叔父で守山城当主の信次が若侍数名と釣りをしていた。
あおいの姿に気づいた信次は、釣り竿をお付きの者に渡し、あおいの元へ寄って来た。
「おふたりで?」
「はい」
「快晴ですな、たまには城を出て、外の空気を吸いたくもなりましょう」
信次とは何度か城内で顔を合わせた事があるが、会話をしたのは初めてである。気さくな男で、どことなく雰囲気が亡くなった信長の父信秀に似ていた。
「おっ!魚釣りをなさるので?」
河原に敷いたシーツの上に置いた釣り竿を見ながら、信次はいった。
「初心者なのです」
あおいも、釣り竿の方を見た。
「ご伝授しますよ」
「それは、心強いです」手をたたき、ねっ!と智香に同意を求めた。智香は笑顔で頷いた。
そこにだった。馬に乗った若侍が一騎で、こちらに駆けてきた。年の頃は十代半ばに見える。目を疑うほどの美少年である。
「あれは?」
信次は、その若侍を知っている様子だった。
「お知り合いですか?」
そう尋ねた時、若侍はあおいの前を通り過ぎた。すると、信次の家臣、洲賀才蔵という男が、
「あの馬鹿者め、城主の御前を乗馬のままで通りおって」と怒り出し、弓を取り、矢を射かけた。
一瞬の事であった。
矢は彼を射抜き、彼は馬から転げ落ちた。
「なんて事を」
信次の顔は、見る見る青ざめた。
「まずい」
信次は消え入りそうな声で、「若侍は信長の甥の秀孝殿だ」とつぶやいた。
「信次殿」
あおいの呼びかけに、正気を取り戻した信次は、すぐさま秀孝に駆け寄った。川に入って遊んでいたお付の衆も駆け寄り、口々に、秀孝様だといって驚愕している。あおいと智香も傍に寄った。そこに倒れていた少年は、兄、信長の面影を濃く映していた。肌は、おしろいを塗った様に白く、朱い唇に、柔和な姿、顔形は、人に優れて美しく、なんとも麗しい若者である。
「息は」
あおいが近づいて脈を取った。手首も首も、脈はない。顔を近づけても呼吸はしていなかった。秀孝は息、耐えていた。一度、智香を見てから、あおいは目を瞑り、顔を横に振った。
「とんでもない事になった」
皆、肝を潰して立ちすくんでいたが、信次は
「逃げる」
そういって放心状態で、ゆっくり後ずさりをした。
「信長に殺される前に、我は逃げる」
信次は、取るものも取り合えず、馬に乗り、その場から退ち去った。お付の衆も全て去り、あおいと智香だけが取り残された。
「どうしたら」
智香は半泣き状態である。
「とにかく落ち着いて、秀孝殿を綺麗な場所に移しましょう」
ふたりはシーツの上に秀孝を寝かせ、手を組ませた。
秀孝が死んでから、時間にして三十分程がすぎた頃、遠くから、多くの武士が騎馬で向かってきた。
「なっなに」
怖がる智香を背中に回し、あおいは、騎馬衆を睨むように見た。
「なんという事だ!」
叫び声を上げ、馬から降り立ったのは、信行である。信秀の葬儀で面識があり、顔を覚えていた。信行は、弟を抱きかかえると、声を上げて泣きだした。そして気分が落ち着いた頃に、
「信次は?」と一言。
ふたりは黙って顔を見合わせた。すると、織田家家老、柴田勝家が、
「奴は守山の城には戻らず、そのまま逃亡した模様」と語った。
「おのれ信次」
強く拳を握り締め、信行は天を仰いだ。信行のお小姓衆と見られる侍数人がかりで、秀孝の亡骸を、戸板に慎重に移した。
「其方は?」
立ち上がり、砂を払いながら、信行はあおいの顔を見た。そして、薄っすら口元を緩ませ、ふふと溜息にも似た笑いを浮かべた。
「見覚えがある。まあ良い、其方全てを見ていたのか?」
信行の問いに、あおいは首を振った。
「いいえ」
信行の気迫に押されたが、即座に嘘をついていた。
戸板に寝かされた秀孝を見た。まるで眠っているようだった。信長と同腹の信行より、母が違う秀孝の方が、信長に似ていた。信行は母親似だった。
「まあ良い。秀孝を殺すよう誰ぞに命じたのは兄なのではないのかと信長に伝えよ」
そう捨て台詞をいって、信行は去った。
あおいと智香のふたりは呆然自失となり、その場に立ち竦んでいた。暫くすると、ふたりのいる現場に信長がやってきた。
信長の姿を見て、ほっとしたのか、あおいの顔に漸く血の色が戻った。
「大変であったな」
馬に水を飲ませながら、信長はいった。
「秀孝殿のこと、知っているのですか?」
「ああ」と信長はいって、秀孝の血が広がる、河原に目をやった。すると利家が一騎で駆けてきた。
「如何した」
水を飲む馬の首を撫でながら、信長は聞いた。利家は河原に片膝をついた。
「信次殿はただちにどこへとも知れず逃げ去った模様。城には、どなたもおられず、城も城下もことごとく、信行殿が焼き打ち」
「で、あるか」
無表情で、そう言うと、
「しかし、我らの弟とあろう者が、下僕も連れずに馬一騎で駆けまわるとは、沙汰の限り、あきれた所業だ。例え生きていても今後とも許すことは出来ぬ」
そして視線を、あおいに移した。
「さあ、この様な場所にいつまでもいては縁起が悪い、清州へ戻るぞ」
言い終わるや否や、とっとと馬を飛ばして帰ってしまった。
「さっさと行っちゃった」
実の弟を亡くしたのに、哀しくないのかしら
信長の背中を見送りながら、あおいは思った。
戦国時代、人の死は日常である。あおいが来てからも、信長の身内が数人、戦で討ち死にし、信秀は病死、平手政秀は切腹して果てた。感傷に浸る暇などないのかも知れない。
しかし、あおいは、信行の放った言葉が気になって頭から離れなかった。
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