第17話 和山智香

居城を那古野城から清州城へ移した二日目の朝、あおいは、手拭をほっ被りにし、新居の畳を雑巾がけしていた。以前は、茶室とはいえ、独立した家に住んでいたが、今回は二の丸御殿の中に住まいを与えられた。

二の丸には、正室である帰蝶の居室もあり、あおいにとって、あまり心地の良い場所とはいい難い。

帰蝶に好かれている志保は、帰蝶の隣に部屋を与えられていたし、広い二の丸といえども、ばったり出会う確率は高い。

ー気が重いー

令和に生まれ育ったとはいえ、不倫をしている感覚ではないが、なるべくなら正室と顔を合わせたくないし、あおいの中にも嫉妬はある。

信長との関係が変えられないのなら、帰蝶と離れているのが平和だと思っていた。この時は未だ、帰蝶だけが、あおいの恋敵と思っていたから。

「あおい」

いきなり大きな声で名前を呼ばれ、あおいは驚いて尻を着いた。

「なんですか」

その態勢で後ろ手につき、信長を見上げた。

「そうして足を広げて」

「ひゃっ」といってあおいは慌てて正座をした。

「急に何か用事でございますか、いきなり」

ん?と信長は横目であおいを見た。自分の城だとでも言いたそうにしている。

「まあ、殿のお城の一部屋を与えられたのですけど…ご用とか、おかしいですよね全く」

「以前の茶室と違い、ここには水屋も、井戸もない。不便だろうからお前に侍女を用意した」

「侍女?」

ーわたしに侍女ー考えてもみなかった。水屋も井戸もないので、水仕事は台所に行けば良いと思っていたからだ。少々不便だし、志保たちに出会うのも憚られたが、いまのあおいには時間だけはふんだんにある。

「此れ」

信長が声を掛けると、一人の若々しい女性が入ってきた。あおいは直ぐに、居住まいを正し、頭の手拭も取った。女は俯き加減で廊下の敷居の手前で手をついた。

「名を」

信長がやさしく問いかける。

「智香と申します」頭を上げるまで、それが幼馴染で、大の仲良しの智香とは気づかなかった。

侍女の制服でもある布を頭に巻いている。額の前で結んだリボンが可愛らしく、あおいはまるで幼い子を見る様にして、眼を細めて見ていた。

「よろしくお願いします」と、あおいが言っても、智香は頭を下げたままでいた。

「さあ、こちらに」

信長に促され、立ってこちらに来る智香を見て、あおいは息を飲んだ。

見間違いだろうか?と思った。

「どうかしたか?」

信長に問いかけられ、あおいは首を振った。しかし涙は自然に溢れ出る。

「あおい」といって姿勢を低くし、信長は、あおいの目を見た。

「いいえ」

そういうのがやっとであった。

智香を見ると、智香も泣いていた。片手で口を覆い、鳴き声を出さないように絞り泣いてる。それに耐えられず、あおいは、智香に走り寄った。

「智香」

声にならない声で名を呼んで、智香の顔を掌で包み、顔を見た。紛れもない、そこにいるのは、懐かしい智香であった。

「大丈夫」

この問いが、この場で正解なのかは、わからない。

「うん」と智香は頷いた。身体の小さい智香を抱き寄せ、ふたりで泣いた。

信長が部屋を出てい行った事もわからぬまま、ふたりは泣いていた。存分に泣いた後、智香もあおいも、ふーっと大きなため息をついて、そして笑った。

智香の手を持ち、座敷の中央まで連れて、向かい合って座った。

智香の両手を握り、もう一度、「大丈夫だったの?」と聞いた。

それから、ふたりは、色々な事を話した。戦国に来た時のこと。清州城にあおいの侍女として働くまでの経緯など、沢山のことを、時に泣きながら、時に笑いながら話した。

智香によると、末盛城の近くの神社で智香は目覚め、薄汚い恰好の男に助けられたらしい。その男の知り合いという織田家の足軽大将の長屋に預けられ、これまで、平穏に生きたといっていた。

「その人の名前がね」

智香は目を輝かせていった。

「藤吉郎というの、木下藤吉郎」

助けてくれた男の名前を聞いて、あおいも、仰天した。

「秀吉!」

大きな声を出してしまい、ふたりは顔を見合わせて、また笑った。

頼りになった家の娘は、ねね、というらしく、色々と合点した。

「孝一に会ってね、あおいのことを聞いたの」

智香は正座が苦手らしく、足を崩して横座りになった。

「そうなの、いつ頃の話し」

「冬」

「遥にも会ったよ」

「遥にも」

頭が混乱した。聞きたい事が多すぎて、何から聞いて良いのかもわからない。

「何を最初に聞きたい?」

そんな、あおいの動揺を察したのか、智香は冷静にいった。正座をし、膝を突き合わせて座った。

「そうね、先ずは孝一のこと、かな」

「元カレだものね」

智香は意味深に目を細めた。元カレとは、どういう意味だろうと、あおいは思った。信長との関係を、智香は知っているのか?

「元カレって言っても」

「そうね、ごめん。昔のことだものね。それより側室になったんでしょう?」

口に手を添え、身を乗り出してそういった。智香は続けて、

「信長さんと、そういう関係なら、当然、孝一との関係は終わったってことだと思った」

「実際は終わってるよ。そもそもはじまりも曖昧だったし」

あおいと孝一の関係が、幼馴染から恋人という形に変わったのは、高校一年の夏の話である。夏休み期間のアルバイト先が一緒だった事で、自宅も近いことから、バイト終わりに、ふたりで帰る事が多かった。最寄りの駅に近い場所にあるペットショップでのバイトだったが、仔犬や子猫、鳥に爬虫類、様々な種類を丁寧に世話する孝一を、頼りがいのある存在だと、意識するようになった。

ある日の晩、ふたりで自転車を押して歩いている時、孝一から告白された。しかし、それからのふたりの関係性に目立った発展はなく、時が流れて行っただけなのだ。恋人と呼ぶには、かけ離れていた。

「側室の話し、これはね、孝一から聞いたの」えっ?とあおいは、目を大きく開いた。

「そうなるだろうと感じていたらしいけど、少しショックだったって言ってたわよ」

「どこで聞いたの?」

「末盛城の城下町を散策していた時に声を掛けられて、それが孝一なんだもん、びっくり」

智香は袂を上げて、涙を拭いた。智香によると、城下で孝一に声を掛けられた後、厄介になっている、ねねの長屋へ孝一を誘ったらしい。そこで、これまでの経緯を語り合った。するとそこに秀吉がねねを訪ねて来た。孝一を気に入った秀吉が、信長の馬周衆に推薦、見事に抜擢されという。現在、信長の傍で働いているというのだから驚いた。

まさか、信長の馬回衆だったとは、あまりの驚愕に、あおいは声も出せないでいた。

「それでね、もう別れてるから良いと思うのだけど、孝一、一人暮らしじゃないのよ」

智香は言いづらそうに、正座の尻をもじもじさせている。

「誰かと、一緒に暮らしているってこと」

女だという事はわかった。子供の頃から孝一は良くモテたし、当時からあおいの他にも、女の存在が見え隠れしていたから。

「おんな?」

「うん」と頷いて、智香は上目遣いであおいを見た。そして

「遥」といった。

「あっそう」

遥と、孝一の関係は、前々からおかしいと感じていたので、驚く程、冷静に聞いた。

「割とすぐに一緒に住みはじめたみたい」

だからか

心でつぶやき、掌を拳で打った。孝一と会った時、遥の存在を、曖昧にしていた事の謎が解けた。

「遥は何をしているの?」

「侍女よ、ここの」

「えー!」

自分の声に驚いて、口を両手で塞いだ。

「知らないわよ、わたし」口を塞いだままであおいはいった。

「知らなくて当然。わたしと遥、きょうから清州城の勤務スタートだから」

「ねえねえ」

あおいは、足を崩して、智香の耳元に口を近づけた。

「遥も、わたしの侍女じゃないよね」

「違う違う、普通の侍女」

「ふっ普通の侍女」

遥は苦手だった。あおいは良かったと胸を撫でおろし、

「ところで、どうやって侍女になったの?面接とか、募集とかあるの?」

「待って、待って」と智香は、膝立ちになるあおいの両肩を持って座らせた。

「募集はないよ。面接もなかった。わたしも遥も、ねね様の口利きだから」

「そうなんだあ、そっか、4人が一緒になったんだね」

「そう、一緒になれたんだよ」

あおいは、体育座りさながらに膝を抱えた。智香もそれに習って、並んで座った。

初夏の穏やかな日差しが、ふたりをやさしく包んでいた。そこは、これからの恐ろしい試練の日々を、微塵も感じさせない空間だった。

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