第16話 終わりのない家督争い
あの夜から数日が経っていた。
その頃、駿河勢が信長に敵対し、小河城(愛知県知多郡)への道路を遮断した。信長は後方からの攻撃を試みたが、留守中に那古野へ攻め入られ、城下を焼かれる事を考え、斎藤道三へ城番の軍勢を一隊、派遣してくれる様依頼した。道三から安藤守就を大将に、千人ばかりの兵を派遣された。信長は自ら出向いて安藤の部隊に陣中見舞いをした。
その翌日、出陣する予定の信長に対し、家老の林秀貞、その弟が不服を申し立て、林の与力である前田利家の実家、荒子城へ退去してしまう。他の家老が狼狽える中、信長は、「それなら、それで構わぬ」といい、愛馬の「ものかは」に乗り、出陣した。
その夜は熱田に泊まったが、翌日は予想外の悪天候にみまわれ、船頭、舵取りに、「ご渡航はできませぬ」と拒否されたが信長は、
「昔、源義経と梶原景時が、退去に備えて逆方向に漕ぐ逆櫓を付けるか否かで争った時の風も、この様な風だっただろう。是非とも渡海するゆえ、船を出せ」といって強引に出港した。
夜明けと共に出陣した織田軍は、信長を先陣として戦い、狭間を三段に構え、鉄砲をとっかえ、ひっかけ撃たせた。負傷者、死者もわからぬ程であったが、大将である信長が先陣を切る事で、士気が高まり兵士は我も、我もと戦った。
戦を終え、城に戻った信長を迎えた帰蝶に信長は、道三のへの謝意を伝えた。
「夫婦なのですから、斎藤家が加勢するのは当然のことで御座います」
帰蝶の言葉を聞き、信長は改めて頭を下げた。
「かたじけない」
「水臭いこと。父が申しておりました」
信長の居室に、帰蝶が出迎えるのは珍しい。お小姓衆が信長の着替えを手伝うのを帰蝶が遮り、自らが、鎧下を脱ぐのを手伝った。今夜ばかりは、あおいは廊下に出て、その様子を見守るしかない。
「舅殿は、なんと仰せで?」
引っ立て烏帽子を脱ぎながら、信長は聞いた。
「恐るべき男だと、隣国には居て欲しくない人物と、安藤に伝えたと」
「私の事か」
ふっと信長は軽く息を吐いた。
「疲れた。もう良い、寝所へ戻られよ」
「湯殿で、お身体をお流しいたしましょう」
帰蝶がいうと
「其方の手を煩わせるのは不憫である。夜も遅いゆえ」
いい終わる前に、帰蝶は信長に背を向けていた。
廊下に出て、平伏するあおいを見下ろし、「富田では、愉しい夜を過ごしたそうで」といった。
あおいは答えず、廊下に額が着くまで、ひれ伏した。
正徳寺の信長との夜は、城中に知れ渡っていた。あおいにとって、男性との初めての朝は、これまで経験したことのない、しあわせな余韻であった。
戦国に来て初めて、人を愛することの尊さを知った。もう何も怖くないと思った。
信長さえ、生きていてくれれば。
前田利家の弟で、荒子城領主・前田利春の五男として生まれた藤八郎は、この度佐脇右衛門の養子となり、名を佐脇藤八郎良之と改めていた。
この頃、あおいは侍女の仕事から離れ、実質、信長の側室という扱いを受けていたが、それは正式なものではなく、部屋は茶室のままであったし、信長が戦で忙しいこともあり、特段、以前と変わりなく暮らしていた。
信長の小姓を務める佐脇良之が時折、顔を見せてくれる事が、いまの、あおいの楽しみである。
この日も良之は、荒子城の畑から採って来たという野菜を手土産に、あおいを訪れていた。
「お方様」
良之はこの頃、あおいをこう呼んだ。他の者は、あおい殿などと呼んでいる。殿様の側室なのだから、尊称という意味で、お方様という呼び方が正しいと思われるが、武家の娘ですらなく、家の家格もわからない、あおいの事を、家中の者はよろしく思っていなかった。特に、信長への反感を抱く家臣団や、その家族、従事者らは、あおいの事を蔑んでみた。
「その呼び方は馴染まないな」
貰った野菜を、井戸の水で洗いながら、あおいはそう言った。井戸も茶室のある敷地内にある。竹で出来た塀で囲まれている茶室の敷地は、門戸の見通し以外からは、中が見え難くなっていたので、あおいは気が楽であった。
「お方様は、お方様でございます。すぐに慣れますよ」
「慣れるかしらね」
「時期に」
「それより、きょうは早く来てくれたのね。暇だから、良之がいない時は、お針ばかりしているのよ」
いつもは昼過ぎに来る良之の訪問を喜んだ。あおいは昔から裁縫が得意ということもあり、この頃は、自分の着物や下着、手ぬぐいなどなどを縫っていた。
「そうだ、お屋形様より、他所へ移る事をお聞きになりましたか?」
あおいの呼び名だけでなく、織田弾正忠家当主となった信長の敬称も殿から、お屋形へ変わった。
「移る?聞いてないわよ」
しゃがんでたあおいは立ち上がり、腰に手を置いて、空を仰いだ。
その様子を見て、良之はなぜか視線を逸らした。
「清洲の城に移るのです」
「清州城に?五条川がお堀の城ね」
五条川の河原で、信長と初対面した時を思い出し、両手を胸に当てた。
「明日にも城替えを致しますゆえ、準備のお手伝いをと、早めに参りました」
「明日?それは急ですね。まあいいか。良之が手伝ってくれるしねえ」
冗談ぽくいい、お昼、食べてかないかと良之を招いた。
少し前、信長の叔父・織田信光は、清洲城領主・酒井大善に懇願され、尾張の守護代となり、守山城から清州城の南櫓へと移った。
と、ここまでは良かったのだが、信光は、信長に、「清洲の城を騙し取りましょう。その代わり、於田井川(名古屋市)を境にし、尾張の下四郡のうち、東半分を某に下され」と申し入れた。
四月二十日、酒井大善が、信光への礼に、南櫓を訪れる予定であったが、異様な気配を感じてか、大善は、そのまま今川義元を頼って、駿河へ逃げてしまった。仕方がないので、信光は、信長と対立している織田信友を殺すことを計画する。父・信秀の死後、弟信行を擁立し、信長を廃嫡しようとする動きが盛んになっていた。信友は信行の家督相続を支持していたので、当然、信長とは仲が悪い。その上、信長暗殺計画を企て失敗している過去がある。
信長の支持を得た信光は、信友を追い詰め、切腹させた。清州城、乗っ取りに成功した信光は、清州を信長に渡し、自分は、那古野の城へ移る事となっていた。
織田信光 信長の叔父
酒井大善 信友の重臣
織田信友 清州城城主・信長の親戚・養父の子が信秀の正室(土田御前)
夕刻近くになり、食事の後片付けをしていたあおいの元へ信長が訪れた。
「すっかり片付いたな」
腕組をし、部屋の中を見渡している。実兄との家督争いに、終わりのない戦争と、困難が多いせいか、細面の頬は痩せ、疲れている様に見えた。
「良之が手伝ってくれましたので」
土間にいたあおいは、前掛けで手を拭き、座敷に上がって手をついた。
「お痩せになりましたね」
手をついたまま、信長を見上げた。信長は軽く頷くと、草履を脱いで座敷に上がった。
「いざ、ここを去ると思うと、寂しい気もするな」
「そうですね。わたしはたったの一年ですが、このこじんまりとした茶室は、意外とお気に入りでした」
「次は、もう少し広くて、綺麗な部屋を用意しておる」
「そういう意味ではございません。このくらいで十分です」
そういってから飲み物を聞いた。珍しく、酒が欲しいと答えた信長の為に湯を沸かし、酒をつけている。
「そういえば、お前、兄弟は?」
土間を振り返り、信長は聞いた。
「前に申しませんでしたか?いませんよ、一人っ子です」
「で、あるか」
「殿は、たくさんいますものね」
盆に乗せた徳利と、おちょこがふたつ。慎重に運んでいる。
「ああ、同腹では四人だが」
「で、ございましたね」
一説によると、父、信秀には22人の子供がいたと言われている。
「姉、弟、妹だな」
信長はおちょこを一気に空け、盆に置いた。
「兄弟がいても、仲違いしているのだから厄介なものぞ」
「はい」
あおいは、おちょこを唇にあてたまま、止まっている。
信秀の死後、信行の行動は目に余る物がある。信長の関与なしで独自に判物を発給したり、港町・熱田の豪商である加藤家のうち、東加藤家にたびたび判物を発給。一方で、信長も同じく西加藤家に判物を発給していることから、商業地である熱田の権益を巡って両者が争っていた。そこには、実の母親、土田御前の影響が強く表れている。土田御前こそが、この家督相続の首謀者であった。あおいは、その事を見聞きしていたので、信長の心中を思うと、心苦しかった。
「つかれた」
信長はいって、そのまま仰向けになった。両手を頭の下に敷き、目を閉じている。
酒は一口、飲んだだけだ。
「風邪を召されますよ」
部屋の隅に畳んである、掛け布団を、信長にそっと掛けた。信長は薄っすら、目を開け、
「儂も22人の子を持つ為には、いまから気張らねばならぬな」
と笑って見せた。
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