第15話 迷いながら
一緒に道三の隊列を見送っていたあおいには、ひとつ疑問が残っていた。
道三が、あおいを信長の側室かと質問したのは聞こえたが、信長の答えは聞こえなかった。
側室ではない筈なので、否定したのだろうと思ってはいたが、どこか、もやもやしたものが心の中に留まっている。
「ふーん」
夕焼けに消えてゆく隊列を、ぼんやり眺めていると、耳元で「側室殿」と信長がつぶやいた。
「えっ?」とあおいが振り返るが、信長は悪戯な顔で笑っているだけである。
今夜は、この寺に一拍し、明日、尾張に帰る予定だ。
眠れるかしら?と、あおいの頭の中は、墓石の立ち並ぶ寺で、ひとり眠る怖さの不安に変わっていた。
髪を結んでた紐をといた。戦国に来て、初めての色鮮やかな平打ち紐を掌に乗せて、じっくりと眺めている。
「かわいい」と掌の紐を目線の高さまで上げて見た。
宿坊で与えられた部屋は駄々広く、薄暗かった。頼りない燈明の明かりは、部屋の隅々にまで届かず、あおいの周辺だけを薄っすらと照らしている。時折響く、フクロウの鳴き声が、薄気味悪さに拍車をかけていた。
未だ明るいうちに部屋の外を眺めたら、広大な敷地に、墓石と卒塔婆が不揃いにびっしり並んでいた。
子供のころから、一人寝の苦手なあおいにとって最悪の環境だ。
「戦国に来て、慣れた方だけどな」
戦国にタイムスリップしたばかりの頃は、夜間の暗さに怯えていたが、それも最近は慣れてきた。しかしゆらゆら揺れるひとつの燈明の灯や、フクロウの鳴き声は、今でも苦手だ。だからと言って、このまま起きている訳にはいかないのだ。明日の出発も早い。
燈明をなるべく近くに引き寄せて布団に入り天井を仰いだ。
「まだまだ寒い」
戦国の春は寒く、布団を肩まで上げている。木の節が、人の顔に見えて怖い。瞼をギュッと瞑った。
しばらくそうしていたが、風が木々を揺らす音が睡眠を邪魔する。
殿はもう寝たかしら
ふと、仕切られた襖の方を見た。暗闇の中で、不気味な襖絵の色彩だけが浮き出て見える。あの向こうに、信長が寝ているのだ。道三との会話の中で、側室と間違われたあおいを、宿坊の若い僧らが気を使い、いちばん大きく豪勢な部屋に布団を二枚、敷いてくれていた。
信長の荷物を持って、この部屋に着いて来ただけなのだが、襖を開けた途端、信長は一瞬で状況が理解できた様だ。急に立ち止まった信長の背中にぶつかりそうになり、中を覗いたのだが、あおいにしてみれば、敷かれた二枚のうちの一枚が、自分の布団だとは考えも及ばない。
「これは、困った」
敷居の上で立ちすくんで、どうしたものかと、信長は悩んでいた。
結局、信長の提案で、一つの座敷を襖で仕切った。
せめてもう少し、襖の近くに布団を敷かせて貰えば良かった
襖を隔てた同じ部屋といえども、この部屋は広すぎる。旅館の大広間を二つ繋げたような大きさだった。
このまま眠れずに朝を迎えるのを覚悟していたら、着物の擦れる音が近づいて来た。
なに?
まさか音の主が信長だとは思えず、あおいは怖くなった。
「あおい、入るぞ」
「え?」
信長の声とわかり、それまでの恐怖は一気に消え、安堵に胸を撫でおろした。
「殿?」
だれの声かわかっていたが、一応、そう聞いてみた。あおいの問いかけの途中で、信長は襖を開けた。暗がりから白い寝間着を纏った信長がゆっくり歩いて、こちらに向かってきた。あおいは、既に上体を起こしていたが、布団に足を入れたままである。
「すまぬ、休んでいたか?」
と信長は言い、あおいの枕元に腰を下ろした。胡坐を組んだ裾が乱れ、筋肉質の素足が見える。
「いいえ、なんだか寝付けなくて」
腰まである髪の毛を手で一束にし、片方の肩に垂らした。
ふたりきりの空間に緊張しているのか、あおいは信長を直視できないでいる。
「実はお前に、確認しておきたい事がある」
「確認?」
信長は唇の端を噛んでいる。いまからいう事を、躊躇しているのだと感じた。あおいは胸元の乱れを正し、信長に向かい合った。
「前にも聞いたが、おまえ国元に、決まった人が?」
「え?」
決まった人、なかなか聞きなれない言葉であった。あおいは、少し間を置いて、垂れた前髪を耳にかけた。素顔の瑞々しい素肌が、揺れる灯りで妖艶に映った。
「決まった人と申されますと」
「心に決めている男がいるのか」
信長は、あおいの視線を避け、揺れる燈明の明かりを見ていた。信長の視線の先を見ながら、あおいは小さく息を吐いた。彼氏の事だろうか。孝一の顔が最初に浮かんだ。戦国に来て、日々を過ごしているうちに、孝一の存在は、もう彼氏というよりも、親族に近い感情に変っていた。危険を冒してまで、孝一が会いに来てくれてからもう半年の月日が過ぎた。あれから全く音沙汰がない。生きているのか、元気にしているのか、会いたい気持ちはあるが、どうする事も出来ないでいた。
「そういう人はいましたが、もう離れているので、わかりませんが、頼りにはしています」
孝一の存在を隠す事はできなかった。素直な心境を語った。
「で、あるか」
彼はまた唇を軽く噛んで、微笑んだ顔つきで虚空を見た。
「殿には、奥方様がいらっしゃいます」
自分でも、驚く様な言葉を口にしていた。これまでの期間、信長が帰蝶と、どの様な夫婦関係を築いて来たのか、直接は知らない。毎日、台所にやって来る志保の噂話が、全てである。志保によると、ふたりはとても仲睦まじい様子だ。そういう事情もあり、これまであおいは、油断をすると溢れるような、信長への気持ちを封印してきた。
「奥方様か。人を愛し慈しむということは、如何にも容易ではない。わしは特に母の愛を知らぬゆえ」
目線を下に移した信長の顔の半分が燈明の明かりの加減で半分隠れ、物悲しく映った。以前から気にしていた母親との不和と、孤独が反映され、とても悲しい気持ちになる。
「殿、わたしはここにいますよ。殿のお立場が変わっても、ずっと」
そういって、あおいは信長の手を取った。
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