第13話 竹千代

あおいは湯殿の掃除をしていた。白い浴衣を着て、襷を掛けて、縄を丸めた物で床を磨いている。昨夜の孝一の事が頭から離れない。あの後、すぐに布団に入ったが、目が冴えて全く眠れなかった。

あの時、近くにいた四人だけがタイムスリップしたのか、もしかしたらクラス中の全員が、それとももっと多くの人が時を超えたのか、考えていたら眠れなくなったのだ。

とにかく智香が無事な事を祈った。智香の様なタイプは戦国時代に埋もれてしまいそうで怖かった。

しかし不思議な事に、天涯孤独から解放されたような気にもなっていた。

一通り掃除が終わり、湯殿の外で足を拭いていたら、前方から信長がやってきた。その場に平伏しようとするあおいを信長は手を横に振って止めた。朝の日差しが逆行で、顔の部分だけが眩しくて良く見えない。あおいは手拭を持った手で日差しを遮った。

「良い天気だ」

空を見上げ、信長はいった。

「雲、ひとつありません。秋晴れですね」

うん、信長は頷いて、あおいの浴衣姿を見た。湯の飛沫と湯気で浴衣は濡れていた。肌が透けて見えるのではないかと、あおいは手拭を前に垂らして身体を隠した。

「子供の様な体系だな」

彼はいつもの、悪戯な笑みを見せた。あおいは細見である。中学生くらいから背だけは伸びたが、初潮も遅く、胸の膨らみも小さい。自信のない部分を指摘された様で、恥ずかしくなった。

「薄い方なので」

「薄い?」

「身体が薄いのです」

すると信長は眉根を下げて、おもしろい例え方をすると笑った。

おもしろくなんてない。あおいは心でつぶやいた。

「悪気はないのだ、怒るな」

「怒ってないですよ」

信長を真っすぐ見据え、そういった。早く着替えを済ませたい。

「お前、子供は好きか?」

唐突な質問である。あおいが、あっ、はい、というと、

「見せたい者がある。出掛けるから着替えろ」と、あおいの住居の方を指さした。


「竹千代だ」

信長が顎をしゃくって見せた先には、部屋の真ん中にちょこんと座る少年武士がいた。

「竹千代殿、こんにちは」

この場に似合わしくない挨拶をしてしまったのではと、あおいは信長を見た。信長は平然としていた。信長の横には犬千代(後の前田利家)とその弟の藤八郎(後の佐脇良之)が並んでいた。

竹千代は軽く会釈をし、姿勢を正した。

「三河からだ。もう二年になるな?」

はい、と竹千代が答えた。

三河はどこだろう?と頭の中で考えていると、

「そろそろ里に帰ることになる、それまでの期間、お前が面倒みてやってくれ」と信長はいった。

「わたしが、でござりますか?」

自分を指さした。

「遊び相手に丁度良い。そうは思わぬか犬?」

犬千代は腕組みをしている。あおいと、竹千代を見比べて

「あおい殿は、あまり物を知らぬゆえ、竹千代に指南を受けると良かろう」

その横で、藤八郎がうなずいている。信長と同じようにかぶいた格好をしている兄とは違い、折り目正しい。

「それが良い」

信長は笑い、あおいの背中をポンと押した。二歩ほど、前のめりになり、信長を振り返ると、信長は犬千代と廊下に出て行った。

「さあ、上がりましょう」

藤八郎に促され、あおいは座敷に上がり、竹千代の前に座った。上座の竹千代の他に、部屋の端には、竹千代と同世代の若武者が三人、連ねて座っていた。四人とも、精悍な顔立ちをしている。一寸の隙もない印象を、あおいは抱いた。

「三河からいらしたのですね」

この時には、三河が愛知県だと思い出していた。

「はい」

「ご両親は?」

竹千代は無言だった。薄っすら下膨れの頬が、幼さを強調している。

両親のことは、聞いてはいけないのだと悟った。あおいは助け船を求める様に藤八郎を見た。

「竹千代君は人質なのです」

「人質?」

あおいの時代で、人質といえば誘拐である。あおいは、外で談笑している信長と犬千代を見た。

「あの二人が?」

「いえいえ」

藤八郎は笑いながら手を横に振った。

「信秀公の時代のことです。お家の存続のために、成さなければならないこともあるので御座います」

それで、ここの少年は皆、自分たちを警戒しているのだと気づいた。

「もうすぐ帰れると?」

「はい」

藤八郎の顔が曇った。竹千代を見ると、唇をしっかりと結んでいる。

「武家の習いに御座います」

武家の習い、この時代に来て、何度聞いた言葉だろう。彼らは家の存続と名誉の為ならば、個を捨てるのだ。それは、ゆとりの時代に育ったあおいには到底理解し難い事である。

「それで良いのですか?」つい口走る。

「良いのです」といったのは竹千代であった。

突然しゃべったので、あおいは驚いた様に竹千代を見た。

「それで良いのです」もう一度いうと、竹千代は立ち上がり、あおいを廊下に出る様にと目で招いた。

信長と犬千代が立つ場所とは、反対側に位置する廊下に出ると、縁側に繋がっている。そこから美しい庭が眺められた。人質とか、誘拐とか、そういう境遇には見えない。

「藤八郎殿が答えづらい様なので」

といって、初めて笑みを見せた。背丈はあおいの肩程しかないが、しっかりとした体躯をしている。

「国には帰りません。このまま駿河の今川家に移る事になるでしょう」

「そこは?」駿河は静岡、今川は義元だとわかった。歴史の授業で習い、印象に残っている。

「どうしてお国には帰れないの?」

あおいを挟んで、藤八郎が立っている。視線を庭に向け、黙って聞いていた。

「国と家を守る為で御座います」一拍おいて、誠に、何も知らないのですねといった。

寂しくないのと聞こうとしたが止めておいた。竹千代は、己に降りかかる全ての苦難を受け入れ、それでも悲観せずに生きていることがわかったからだ。

「いまの我慢は、無駄ではありませぬ、試練は尊いものです」

そういってから竹千代は、どういう訳か習字をしましょうと、あおいを誘った。

藤八郎と三人で習字を始める頃には、信長と犬千代の姿はなかった。

三人は習字をしながら、いろいろなことを話した。その中には、竹千代が人質になる経緯と、これまでは那古野城ではなく、万正寺に幽閉されていたこと。時折、信長が訪ね、柿や瓜、珍しい菓子などを差し入れしてくれたこと、あおいの名と、松平家の家紋が同じ響きなどを語ってくれた。竹千代を見ていると、自分の置かれた立場をしっかりと理解しているとがわかる。タイムスリップしたことを受け入れられず、めそめそしていた自分が恥ずかしくも思えた。竹千代といると、言い知れない力を貰える。尾張を去るまでの数日間、ここで竹千代の話し相手になれる事を、あおいは喜んでいた。


竹千代に、明日の約束をして、自分の家に帰る途中、信長と出会った。

一緒にいた犬千代は、藤八郎を呼んで、荒子の城に帰って行った。

竹千代が置かれている場所と、あおいの住む茶室まで、徒歩10分程の距離であったが、信長はあおいに歩幅を合わせ、ゆっくりと歩いた。

「お前と、竹千代は気が合うと思っていた」

信長はいった。その時、ふと気がづいた。もしかしたら信長は、敢えて竹千代を万正寺から那古野城に移し、残りの数日間、あおいと触れさせようとしたのではないか。竹千代が、不本意にも実家に帰れない境遇を、あおいに重ね、あおいの心の負担を軽減させようとしてくれたのではないかと。

あおいは立ち止まり、信長に深々と頭を下げた。

「どうした」

「ありがとうございます」

信長は眉間にしわを寄せ、目線を泳がした。

「礼を言われる事はしていない」

そういって早歩きになったと思ったら、突然、立ち止まり、今夜は良く眠れるか?と聞いた。

「え!」

あおいが自分の両頬をおさえると、その手の上に、信長が自分の手を重ねた。

「目が真赤だ」

「えっ」

あおいの手を下ろし、信長は指先で両目の下瞼を下げた。

「ほら真赤だ。ちゃんと寝ろよ」

といって笑い、信長はどこかに行ってしまった。


その様子を、二の丸の廊下から見ている人物がいた。

「あれが、あおいか」

「左様で御座います、奥方様」

奥方の倍も身体が大きい志保は、呆然と信長を見送るあおいを、睨む様に見ていた。

「志保」

「はい」

「志保」

「はい」

志保は振り向いた。

「志保、其方が前に立っては何も見えぬぞ」

「も、申し訳ありませぬ」

「どきなさい」

帰蝶はそういって、あおいを一瞥すると、大きく溜息をつき、打掛の裾を翻して、奥へと入って行った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る