第11話 小橋孝一

その夜、あおいはひとりで部屋にいた。

ガタガタっ、バタッ

「だれ?」

庭の方で確かに音がしたのに、呼びかけても何の反応もない。戦国の夜を、これだけ怖いと思ったことはない。燈明を手に持ち、出口へと向かった。ここから出た方が安全だと思ったからだ。信長に会いたかった。助けてと、心の中で叫んでいた。

「あおい」

薄っすらと、声が聞こえた。草履も履かずに外に出るほど恐怖だったのに、家の方を振り返った。

やだやだ!これまでは、「人」の怖さであったが、いまは「霊」の怖さに変っていた。とにかく明かりが灯り、人の声のする方を目指して走った。人間の心理とは不思議なもので、早く逃げたくても、家を何度も振り返ってしまう。人の気配も、霊の気配もないが、戻る気にはなれなかった。

ー今夜どこで寝たらいいのー

そんな事も心配になった。台所に近づくと、それまでざわざわとしていただけの話し声が、いまは内容までわかる。悪口を言われていたらどうしようと、足が止まる。もう霊の怖さは忘れていた。

「ご側室で、御座いますか」

志保の声が聞こえる。自分には関係のない話の内容に安心して、その場に立ち竦んでいた。素足の足の裏が痛い。

「殿のご側室で、御座いますか~」

志保の声だけ鮮明に聞こえる。あおいの意識が、台所の中に集中した。

「ああ~」と、叫びに似た声の後、志保は嫌味な口調でこう言った。

「あおいの事で、御座いますね。あれはご側室なんて大層なものではなく、ただのお手付きで御座います」

ママさんコーラスのような通った声で、あおいの悪口を言っている。あおいは不満げに口を尖らせた。

「たった一度、キスしただけで、お手付きなんて言われたくないわ」

信長の、あおいへの気持ちがわからないままで、宙ぶらりんに過ごしていることは不安であるし、自分が安物のように思える。しかし深く考えない様にしていた。考えても虚しくなるだけだからだ。

でも、一体だれが殿の側室のことを聞いているのかしら。てっいうか、殿って側室がいるの?

そこは気になった。もしかしたら本当の側室とやらが存在するのかも知れないのだから。

「あおい」

今度はかなり近くから、その声はした。背後に人の気配を感じる。背筋に恐怖が走ったが、意を決し、一歩後ずさりするようにして、素早く後ろを振り返った。

「だれ!」

腕を伸ばして燈明を向けた。

「おいおい」

両腕をクロスして、火を避けたその男は、あおいの彼氏、小橋孝一であった。

「孝一?」

「よっ」

孝一は片手を上げてあおいにウィンクした。

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