第10話 美濃の姫の腰入り
季節は秋を迎えていた。あおいの生活は変わることなく繰り返され、昨年自殺した平手政秀の息子の反乱は、監物が危惧した事態には陥らなく収束した。当の信長と言えば、相次ぐ戦に忙しそうにしている。この頃は劣勢な状況も多く見られ、思案の日々を送っていた。だが、きょうだけは特別である。美濃の姫、帰蝶の輿入れの日だからだ。
信長は何気ない風に、生活をしていた。朝食を終えると、ばたんと横になり、肘枕であおいの動向を観察している。
「何か」
凝視されていることに耐えかねて、あおいはそう言った。
「いや、特に」
「では、なにゆえジロジロと見るのですか」
片づけた膳の横に座ると、溜息交じりにあおいは言った。
「見られていると不快か」
「不快とか、そういう事ではないのです」
「ならば、そう怒ることはない」
唇の隅を片方上げて、にやりと信長は笑った。
「怒ってなど、いません」
言い捨てるようにして、膳を取ろうとしたが、手が滑り、椀を床に転がしてしまう。
「何を動揺しておる」
信長は上体を起こし、立膝をついた。
すみません、あおいは謝りながら転がった椀を膳に戻した。立ち上がろうとすると、信長があおいの手首を取った。
「気分を変えよう」
あおいの手首を握ったままで、信長は立ち上がり、あおいも立たせた。
「甘いものでも食いに行こう」
ふたりは、出会った頃に行った茶屋を訪ね、あの時と同じ「麦こがし」を注文した。
「お前、先程から茶ばかりを飲んでおる」
「喉が渇きまして」
あおいは祝言のことを気にしていた。遅くても帰蝶は昼過ぎには那古野城に到着する予定である。その後、祝言が執り行われるのだ。信長はこんな所で侍女と戯れている場合ではない。あおいは、それを重々理解していた。考えれば、考えるほど喉が渇き、菓子が喉を通らなかった。
「気になるのか」
「気になるとは、何がで御座います?」
祝言の事を言っているのだろうと、あおいは悟った。あの夜のキスの一件があってから、あおいが信長を意識している事を、信長は知っている。
「美濃のことよ」
長床几に片足を乗せる様にして足を組み、信長はあおいに向き直った。
「忙しい最中で御座いますので」
「祝言の支度は、お前の仕事ではない」
「殿は、そう仰せですが、そういう訳にもいかないのです。いろいろと大変なのです」
志保を先頭に、他の侍女らが忙しく働いているのに、通常通りの仕事だけをしていては、周りの反感を呼ぶ。そういう事態はどうしても避けたい。話し相手も誰もいないこの環境は、あおいを想像以上に悩ませていた。
「人の噂など気にする必要はない。自分が良いと思う事をすれば良いのだ。体裁を繕うな」
「体裁を繕ってなどおりませぬ。わたしはただ、いまの環境を受け入れ、何事もなく生活ができればそれで良いのです。帰れる日までは」
「帰れる日。未だ帰る事を考えているのか?」
「当たり前です」
勢いをつけて立ったので、椀の茶がこぼれた。あーもう、と頭に被った桂包(かつらまき)を脱いで床几を拭いた。きょう二度目の粗相である。自分で思っている以上に、信長の結婚に動揺している事に腹が立ってきた。
「ここにいて、良い事など、何もないでは御座いませぬか」
婚礼の良き日に涙を見せるのは憚られたが、止めることの出来ず、溢れでた。信長は黙っていた。
「申し訳ございません。おめでたい日に見苦しい姿をお見せしました」
泣いている姿を他の客に見られたら恥ずかしいと思い、あおいは周囲を見渡したが、10畳ほどの小さな茶屋の中に人影はなかった。ほっと胸を撫でおろし、顎を上げて呼吸を整えた。
「落ち着いたか」
信長は、肌を露出させている方の肩をさするようにして搔いていた。
「美濃から来る女は後家だ」
「後家さんなのですか?美濃の姫様とお聞きしましたが」
少しだけ興味が沸いた。しかしそれを知られる事のないように、感情のない声で話した。
「歳は某と変わらぬようだ。お前ともな」
ふーんと、あおいは一度、うなずいた。
「帰蝶様は以前、結婚されていたのですか?」
「ああ、そう聞いておる。詳しい事は知らぬ」
言いながら腰を上げた信長は、あおいに手招きをして店を出た。きょうは珍しく歩いて城下に来ている。信長は腰に下げている水の入った瓢箪を取り出し、歯で蓋を外して、口飲みした。飲むか?とあおいにも差し出したが、歩きながらは気が引けるので断った。
「どちらにして政略的な婚姻だ」
信長はふっと微笑んだ。
「政略な婚姻と切腹は、武家の習いだな」
「お会いになれば、好きになることもありますよ。きっと」
無理な笑顔を作った頬を、信長が軽くつまんだ。
「お前、そこまで嫌でなければ、ずっとここにいたら良い」
あおいは顔を背けて頬をさすった。
「これまでは、そう嫌ではなかったのです。底意地の悪いブスに意地悪されても我慢ができました。しかしこれからはわかりません」
正直な気持ちを吐露した。城下の町並みを見渡せば、あおい一人で独立して働く事も無謀ではない様な気がしている。志保らの嫌がらせと壮絶な無視に耐えられたのも、信長の存在が大きかった。人の夫になった信長を、これまでと同じよう思い、仕える事は、痛み以外の何物でもない。
「そうか、でもな、お前がいると愉しいのだ。留まれ」
歯を見せて悪戯な顔で微笑み、信長はあおいの頭に手を置いた。出会った頃より背が伸びた気がする。若干、信長を見上げている。
「愉しい、ですか」
ペットの様な存在と、信長は珍しがっているのだろう。
戦国時代の城を、平成生まれの女ひとりで飛び出しすことは、容易な決断ではない。何があっても暫くは我慢をするしかないのか。あおいはゆっくり瞼を閉じて、こくりとうなずいた。
城に戻ると驚いた。予定よりも早く、帰蝶が到着していたのだ。城内が騒がしく動いている。ふたりが歩きで櫓門を潜った時、家老の林秀貞があたふたと走って来た。
「殿、たったいま奥方様が到着されました。祝言を始めますゆえ、早くお着替えを」
信長の腕を取るような仕草をして、もう片方の手で林は額の汗を拭いた。すると信長は、
「祝言には出ぬ」
「なっ、何ですと?」
林は信長の前に、弱弱しく立ちふさがった。
「その様な事、許されませんぞ」
「なにゆえ」
林を一瞥し、そのまま歩き出した。信長の居室までの道筋、内庭からの眺めに、いつもは評定に使用する大広間が見えた。座敷内は厳かに彩られていた。婚礼の準備は万端である。
「殿」とあおいが呼びかけたが、返事はなかった。部屋に入る寸前、「きょうは部屋で過ごすが良い」とだけ言いい、後ろ手で、信長は襖を閉めた。
信長の言いつけ通り、その日は自分の部屋から出なかった。日が暮れて、空に星が輝きはじめると、秋の夜長の寂しさを感じた。縁側に出て、懐に持ち帰った昼間の菓子を食べながら、温めた麦湯を飲んだ。
「祝言は終わったのかな?」
出席をしないと言った信長が、その後どうしたかは、あおいにはわからない。普通に考えれば、新郎が祝言に出ないなど、美濃国、如いては斎藤道三を怒らせる事になり得る。これでの平手政秀の苦労は水の泡だ。平手に育てられ、平手を慕った信長が、その様な無礼を働く訳がない。信長には、平手政秀の意志を尊重して欲しかった。なのに、心が騒ぎ、落ち着かない。逃げ出したい。そう思っていた。
コトリと音がした。どこからだろうと、あおいは部屋の中を見渡した。燈明の明かりと月明りだけでは心許ない。ここを訪ねて来る者は、信長以外に考えられなかった。
「殿?」
と、探るようにいった。
その頃、信長は帰蝶の居室の前にいた。気分が乗らず、祝言には出席していない。だが、例え儀礼的であろうとも、顔見せは必要だろうと考えたのだ。それが平手への礼儀だと信じたからだ。
帰蝶の部屋に通じる廊下を歩いていると、美濃から付き添った数名の侍女が、見知らぬ男の行く先を訪ねて来た。信長は何も答えず、正面だけを見て廊下を突き進むが、それを制することも出来ず、侍女らはわたわたと後を追いかけていた。
ーここかー
信長は心で呟いて、両手で一気に襖を明けた。
「何者?」
帰蝶付きの侍女が叫んだ。二十畳ほどの座敷の真正面に、帰蝶らしき女が座っている。真赤な打掛を着ている。切れ長の爽やかな目はしっかりと信長を捉えていた。唇にも真赤な紅が引かれている。
侍女が数名、長刀の先を信長に突き付けた。
「無礼者!」侍女頭と思われる年増の女が再度叫ぶと、帰蝶は手を伸ばし、それを制した。
「信長か」
帰蝶がいった。信長は帰蝶の前まで来ると、「まさしく」と言って、その場に胡坐を組んだ。
「信長殿は時が読めぬのか。ゆえに欠席をした」
「祝言は窮屈だ」
「お蔭で恥をかかされた」
「二度も三度もするものでは御座らん」
信長は帰蝶の再婚を匂わせた。帰蝶は、ふふと鼻先で笑って、
「わたくしが初婚でないことが気に入らぬのか」
信長は顔の前で手を振った。
「後家であろうが、なかろうが、意味のないこと」
「ならば、側室への配慮か?」
帰蝶にいわれ、あおいの顔が思い浮かんだ。目尻が自然とやわらかくなるのを信長は感じていた。
「側室か」
信長は腰を上げた。見下げるようにして帰蝶を見て、「尾張も良いところだ。お気に召されたら住まわれたら良い、お気に召さなければ、美濃にお帰りになるのも自由」
去ろうとするとする信長に、
「体の良い断り文句じゃな。気に入らぬと、はっきり申せば良い」
帰蝶の語気は明らかに強まった。
「気に入るもどうも、其方の事は何も知らぬゆえ」
「知る気持ちもないと見えた」
「さて」
信長は開け放たれた廊下手前で立ち止まり、大きく背中で息を吐いた。
「ただ、気の強いおなごは不得意である」
信長の足音が完全に去ったのを確認し、帰蝶は侍女頭の大槻(おおき)を指先で読んで、耳元に囁いた。
「殿の側室を、これへ」
「そっそれは」
「呼べと申しておるのじゃ」
帰蝶は手にしていた扇を襖に向けて投げた。
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