第9話 失うということ

監物は目を瞬たたせ、「織田様に関係することです」といった。

信長が関わることとは?監物(けんもつ)が神妙に言うので、あおいは、その先を聞くのが怖くなった。じっと監物の顔を見据えていると、監物は意外なことを口にした。

「兄は織田さまに、父上の死は織田様が原因だと伝えるでしょうが、実はそうではないので御座います」

待って、と言う様にあおいは、両手を胸の前で開いて話を遮った。

「原因というのは、もしかして馬のことでしょうか?」

あおいが思い当たる事柄としては、馬を所望した信長の要請を断った五郎右衛門の事以外ない。

「はい。馬の事で、織田様のご機嫌を損ねることになり、兄と不和になったことは事実であり、その事を生前父上は気にしておりましたが、その様なことで切腹するとはとても考えられないのでございます」

「では、何が原因でとお思いなのですか?」

監物は人見知りなのか、なかなかあおいと目を合わせようとしないので、あおいは顔を覗き込むようにして聞いた。

「平手殿の死に、他の事情があったとしても、それも殿に関する事柄なのでしょうか?」

「いいえ」

と言って監物は唇を舐めた。相当、緊張している様子だ。

「実の兄の事を悪く言うのは気が引けますが、父上の死を機に、兄上は遺恨のある織田様を追い詰めるやも知れません」

「追い詰める?、なぜ?」どういう意味なのか、あおいには判断がつかなかった。信長から五郎右衛門の話を聞いたのは今日が初めてであったからである。

「ご承知の通り、数か月前に織田様はお父上を亡くされました。織田様は、御父上様である信秀公からの御寵愛を受けて育ったと、父より聞き及んでおります。そして常に御嫡子の織田様を盛り立てていらしたと」

この話は周知の事実である。あおいは深くうなづいた。

「その御父上を亡くされた織田様のご心情は、察するに余りあります。誠に申し上げ難いことでは御座りますが、織田様と実の母である土田御前様との確執も、聞こえて来ておりますゆえ」

監物は軽く、礼のような仕草をし、額の汗を手で拭った。

「父政秀のこの度の不祥事は、織田様のお心を乱されることになりましょう。その様な事態ゆえ、この機を有利と目論む輩も少なからず現れる。現に信秀公の死後、謀反は起きております」

「謀反、そうなの?その謀反に貴方様の兄上が関わっていると」

「いいえ、兄上は未だそこまでは」

「しかし、これから関わるかもと」

「信じたくはないのですが、その通りだと疑わずにはいられません。現にいま、兄は織田様になにやら耳打を」

確かに、五郎右衛門は信長に話しかけていた。しかし、それが監物の言う様なことなのか、例え、この話が真実だとしても、なにゆえ監物は、お家の一大事にもなり兼ねない話を、初対面のわたしにするのだろうかと、あおいは監物に僅かな不信感を覚えた。

「兄は、織田様に書状をお渡しになると思います」

「書状?」

「それはいわゆる…」

渡り廊下を行き過ぎる人がいたので、一旦監物は話を止めて、庭の池に目をやった。人が通り過ぎると、視線の位置はそのままで、一層、声を絞った。

「いわゆる、父の遺言書と織田様には説明をされると思うのですが、そうではなないのです」

あおいも、監物に習い、庭の池に目を落としている。

「遺書?」

「某もその書状の内容を読みました。父の切腹と繋ぎ合わせれば、確かに遺書の様にも思えますが、決してそうではないのです。なにゆえ某が」

と言い、声を強めたことを気にしてか、監物は咳払いをした。

「某が、なにゆえ実の兄に嫌疑を向ける様な事を申すのかと不思議に思われるでしょう」

はいと、あおいは頷いた。

「生前父上は、長きに渡り傅役として仕えた織田様の事を大変、気にかけていたのです。その姿を傍で見ていました。織田様は、実にあの様な恰好で城下に出たり、歩きながら物を食したり、道端で立ち小便をしたりして、町民のみならず、家中の者からも蔑まれているのが現状。それを案じた父が、せめて、ご成婚の前までにと…」

あっと監物は息を飲んであおいを見た。婚約のことを気にしているのだろうと察したあおいは、軽く瞼を閉じ、存じておりますと微笑んだ。

「美濃の斎藤道三の娘帰蝶様を、織田家に嫁す手筈を整えたのは、某の父で御座います。道三との顔合わせの日までに織田様に、有様を正して欲しいとの思いを綴った物で御座いました。決して遺書などではありませぬ。しかし、織田様と平手家との確執が浮き彫りになったいま、精神面で打撃を受けた織田様を潰そうと企む勢力が存在しています。兄はその片棒を担ごうとしているで御座います」

監物の言っている事の意味を、あおいは殆ど理解できないでいた。信長が、一部の家臣からの反感を買っている事。母親との確執は知ってはいたが、だからと言って、それがお家騒動に繋がるなどと、これまで考えてもみなかったからだ。

「あの、なぜその様な大切なことをわたしなどに」あおいは困惑した目で監物を見た。

すると、信長と五郎右衛門、三男の汎秀が現れた。

「如何した?」

あおいが答える前に、「父の思い出話などを聞いて貰っていました」監物が言った。

屋敷を出る際、もう一度、あおいは監物の方を見た。監物は「なにとぞ」と声に出さずに唇を動かした。


城に戻る途中、信秀の葬儀の後に立ち寄った平野の広がる場所に立ち寄った。

信長は終始笑顔を作っていたが、馬を降りて、地べたに座ると、突然身体を小刻みに震わせた。

泣いているのだと思い、あおいは信長の隣に正座し、背中にふれた。

「可笑しなものよのう」

と言った信長は、声を出して笑いはじめた。泣いているとばかり思っていたあおいは戸惑いの目で信長を見た。

「爺はわしの親代わりでもある。なのに、わしに寄添う者たちは、何れ…なにゆえ、馬のことで、切腹に追い込んで……しまった」

それっきり信長は左手で顔を覆う様にして、頭を垂れた。

今度は痙攣の様に不規則に身体は震えた。

「殿、殿は何をお聞きになったのですか?」

あおいは静かに聞いた。

監物から聞いた話の内容の整理は出来ていなかったが、悲しみの底にいる信長を助けたいと、あおいは強く思った。あおいの問いかけに信長が答えることはなかった。ただ、息が苦しくなる様な、悲痛な嗚咽が、時折、漏れ聞こえるだけだった。

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