第8話 平手政秀切腹

あれから数週間がすぎた。信長からも、その周りの側近からも、婚礼の話しは一切出なかったので、次第にあおいは、あれは志保の思い過ごしではないかと思いはじめていた。

「気に入らぬことと申されますと?」

「あおい、お前はどう思う?」

晩御飯の片づけをしている時に、気に入らぬ、気に入らぬと、何度も信長は口にした。

内容もわからずに聞かれてもと、あおいは思った。苛立ちの隠せない信長を見たのは、今日が初めてだ。

あおいは、食事の終わった膳を廊下に出し、座敷の縁に正座をした。

「わたしで宜しければ、その気に入らぬものの内容を、お聞きしますよ」

そう言って膝に手を置いた。殿様と侍女という間柄に変化はなかったが、最近では、世間話くらいなら平気で出来る。

「ならばこちらに」

と信長が言うので、信長が座る上座まで立って行った。

「こちらで宜しいですか?」

信長の真向いに座り、居住まいを正した。

「欲しい馬があったのだ」唐突に信長が言い、脇息に肘をかけた。

「欲しい馬と申されますと」

「平手の長男に五郎右衛門という者がいる。その男の持っている馬が、とても優れているゆえ、譲って欲しいと申したのだ」

信長は脇息を引き寄せて、両腕を乗せた。

「はあ、そうですか、平手殿のご嫡男の馬を」

「奴は、どう返答したと思う?」

これまでの信長の様子を見れば、容易に五郎右衛門の返事がわかる。しかし、あおいはわからない振りをして見せた。その方が良いのではないかと思ったからだ。さあ?と首を傾げた。

「あいつ、大切な馬ゆえ、渡せぬと申すのだ」

「大切な馬ならば、譲りたくないのが心情ではないのですか?」

あおいには五歳になる柴犬がいた。生後三か月の時、親友の智香から譲り受けた子犬である。寝るときも一緒に寝て、食事も散歩も、あおいの当番だった。そんな愛犬を、突然譲ってくれと言われたらと考えると、とてもそんな事ができるとは思えない。馬であっても同様だろうと思った。

「わしに馬を譲れば、五郎右衛門にとっても、延いては平手家の誉であろう。そうは思わぬか」

「考え方は人それぞれ異なるものです」

「お前は、五郎右衛門が正しいと申すのか」

なにやら目を細めて信長が聞いた。

「誉とか正直わかりません。ただ、大切にしている物を差し出すことは、心が痛むものです。生き物ならば尚更。わたくしも、その様な申し出は断りますが」

「ふん」

不満げに顎をさわりながら聞いていた信長が、ふっと廊下を見た。

少し遅れて、人が急いで渡ってくる足音が響いてくる。

「殿、一大事に御座りまする」

そう言って片膝を着いたのは、一番家老の林秀貞である。神妙な面持ちの林を見て、大変な事が起こったのだと察したあおいは部屋の隅へと下がった。

「何事だ」

信長は厳しい目で林を見た。

「平手殿が」

「平手、爺がどうした?」

只事ではない林の様子に、信長の顔が険しさを増す。

「切腹されたとの報せが」

「なに」と言った後、それは誠か?と言葉を絞るように発した。林は項垂れ、崩れた膝の上で固く握った拳を震わせた。

信長は胡坐の姿勢からすっと垂直に立ち上がると、共に参れとあおいに命じた。


馬二騎で城下に出ると、侍長屋を抜け、重臣の屋敷が連なる地区に来た。長屋とは違い、一軒一軒が独立した敷地面識の広い土地が並んでいる。その一番奥地の突き当りに着くと、人の出入りの激しい一軒家があった。書院造の邸宅の門は開け放たれている。家の者が信長の存在に気付くと、慌てた下僕が馬を預かった。そこに居た多くの人々は、蜘蛛の子を散らすようにどこかへ散らばり、二つ目の門を通る時に、平手の息子の五郎右衛門、監物、汎秀が現れた。

三人は信長に礼を述べ、奥の間に案内しようとした。三男の汎秀が、こちらは?という風に、信長とあおいを交互に見た。

「お前も世話になったのだから、一緒に来い」

信長が言うので、三人の息子は、どうぞこちらへとあおいを導いた。信長の言う通り、平手政秀には世話にはなった。戦国にタイムスリップして、右も左もわらないあおいに色々と手ほどきをしてくれたのは平手である。志保を筆頭に、侍女らに嫌がらせを受けている時も、あおいを庇い、やさしく慰めてくれたものだ。

気難しい信長との接し方を教えてくれたのも平手である。たった半年程の短い期間ではあったが、これまで、あおいがなんとか戦国で暮らすことが出来たのは、平手の思いやりの深さがあったからである。

切腹など、間違いに違いない!そうあおいは心で念じていた。

渡り廊下を抜けると、抹香の燃える匂いがした。信長の父親である信秀の葬儀で嗅いだ匂いだ。平手が死んだことが現実味を帯び、心が締め付けられた。

平手の眠る座敷の前に来た。両手を胸の前で強く握りしめ、最初、目を閉じてから、あおいは部屋の中を見た。中央に眠るのは、間違いなく平手政秀であった。血の色の抜けた白い肌は、息をしている人間のものではなかった。

 しっかりしなければ

信長の事を考えた。母親の愛情を失った信長を育ててくれたのは平手であった。昼夜を問わず、信長の近くに存在した。幼い頃はやんちゃ坊主、青少年時代は、傾奇者と揶揄される信長に手を焼き、頭を悩ませていた。

嫡男である信長が、自由に過ごせたのは、他でもない平手政秀の存在が大きい。その事を信長は重々理解していた。春に父親を亡くしたばかりの信長にとって、平手の死は、どれほどの悲しみか。あおいは自分の感情を抑えた。

故人の横に腰を下ろした信長は、じっと政秀の顔を見ていた。声には出さないが、何か話しかけている様にも見えた。そこに、嫡男の五郎右衛門が寄ってきて、信長の耳元に何か囁く。その時、背後から次男監物が、「あのう」と気弱な声で話しかけてきた。あおいと監物は座敷を出て、元来た渡り廊下の中程で立ち止まった。

「なにか、お話でも」

おどおどする監物に、あおいが切り出した。

「大したことではないのです。いやっ、大したことなのかも知れませぬ」

何を言いたいのかわからない。俯きがちに身体を揺らす監物の両腕に、あおいはそっと触れた。

「大丈夫ですか?平手様があのようなことになり、動揺されているのでしょう。お気をお確かにお持ちください」

「そっそれもあるのですが、話と言うのは違うのです」

「と、申されますと?」

「父の死の真相をお話したく」

「真相?、真相とは、どうゆうことでしょうか?」

あおいは語気を強めて言った。

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