第4話 織田信秀

あれは一体、なんだったのだろう

あおいは、昨夜のキスのことを考えていた。予期せぬことで動揺し、すぐにその場を後にしたが、眠気を誘うためにアルコールを飲んだ効果もなく、一睡もできなかった。

あおいにとって、あれはファーストキスであった。令和の時代に住んでいる時、高校の同級生で、幼馴染でもある小橋孝一と恋愛関係にあったが、手を繋ぐのがやっと。時代を遡ってとはいっても、孝一への裏切りは心苦しくもあったが、それよりも何よりも、初体験への新鮮味の方が、あおいの心に強く印象づいている。

夜明け前の布団の中、心臓近くに手を当て、何度もため息をついた。ため息の理由はもうひとつある。昨夜、信長の命とはいえ、志保に自分と信長の酒を用意させたことへの、志保やその取り巻き連中の一層の嫌がらせだ。

「うーん、考えても仕方ない」

あおいは、意を決して起き上がった。


毎朝の仕事である湯殿の掃除を終えたあおいは、重たい心情のまま台所に向かった。早朝の勝手場は忙しい。四方の竈から湯気が立ち、まな板を打つ、包丁の音が響く。

あおいは、仕事に遅刻した訳ではないのだが、その日に限り、勝手場を預かる全ての侍女が揃って働いていた。

「おはようございます」

あおいの挨拶に対して、返事がないのは普段のことであり、驚かない。ただ、一見でいつもとは違う雰囲気が漂っているのがわかる。志保は味噌汁の準備をしていた。野菜を切る志保の元に寄り、昨夜のことを詫びたが、無視である。あおいなど存在していない様にして、志保は他の侍女に話しかけた。

他の侍女も同様に、あおいに目を合わせうとしない。とりわけ、あおいが来るまで信長付きだった侍女の優(ゆう)は、物を置くのも、扉の開け閉めも、わざと大きな音を立てて作業をしていた。

二十畳ほどの台所の、重苦しい空気を抜け出せたのは、朝食の準備が整い、信長の居室へ運ぶ時であった。


「失礼致します」

扉を引いて、中に入ると、信長の姿はなかった。少し安堵した。信長を待つ間、居室の裏にある庭に出て、雑草の手入れをしていた。庭の仕事は、あおいの物ではなかったが、台所に戻るのも気が引けたので、ここで時間を潰すことにしたのだ。

「見ぬ顔じゃな」

庭の奥から初老の男性がやってきた。

精悍な顔立ちの中に、懐の深さを思わせる様相だった。あおいは一瞬で親しみを覚えた。

「あおいと申します」

直ぐに立ち上がり、深く礼をした。

「三郎のところに来た、新しい侍女とは其方のことか?」

「あっはい。わたしです」

三郎とは信長の仮名(けみょう)である。当時武士は諱を呼ぶことを避け、仮名を使用した。

「おもしろい女が来たと、息子が喜んでいたぞ」

「息子?」

こくりと頷き、織田信秀は縁側に腰かけた。

「おもしろいとは、わたしの事でございますか」

「である。あおいと申しておった。其方であろう」

「あっはい。あっあの御挨拶が遅れて」

あおいは前掛けを外し、深々と頭を下げた。

「殿には、お世話になりっ放しで。なんとお礼を申し上げたら良いのか」

「気にすることはない。三郎は明るい男だが、少々神経質が過ぎるゆえ、往生しているのではないか?」

「いえ、その様なことは」

 確かに、かなり神経質だ。

あおいは唇をぎゅっと結んだ。

「あれは、真面目な男だ。いまは、あの様なうつけた格好をして幼馴染の犬千代と町をぶらぶらと遊び歩いてはいるが、日々の鍛錬には事欠かない。ああ見えて人一倍努力をしておる。心根もやさしい。そのやさしさゆえ、人を信じやすいところがある。武士には、もう少し、冷徹に人を見る目も必要じゃ。それとのう」

信秀は、あおいに隣に座るように促し、向き合い、人差し指を立てた。

「あいつには、ひとつ大きな欠点がある」

「欠点と、申されますと」

「あいつは言葉数が少ない。そう思わぬか?」

「あっはあ」

「やつは自分の考えていることは、わざわざ説明しなくとも、相手は理解していると思っておる。それは時に大きな誤解を招くことに繋がる。わしはそれを案じておる」

「なるほど」

確かに、信長は言葉数の少ない男であった。仲間と連れ立つことが多く、良く笑い、遊興を楽しむ姿も見受けられが、政に関する事柄になると、極めて言葉数が減るのである。端的に要点だけを話すので、聞き手は、信長の真意を理解するのに必死になる。

朝がすっかり明けた。

信秀とふたり、白い空を眺めた頃、湯殿から信長が戻って来た。

「父上」

信長が声を掛けるより前に、信秀が振り向いた。信長の声に驚き、あおいは飛び上がるようにして立った。

「えらく長風呂だな。朝飯がすっかり冷めて仕舞っておるぞ」

そう言って、信秀は居間の中央に置かれた膳を見た。

「メシは良い。腹は空いておらぬゆえ、片づけて構わぬ」

「はい」

居間に入ろうとするあおいを、信秀が引き留めた。

「まあ、そう急がなくても良かろう、あおい。それとも他に用でもあるのか?」

「その様なことは」

洗い物を済ませれば、後は自由時間が続く。しかし、ここに留まり雑談をすることは、志保らの手前憚られるし、昨夜の出来事があるので、信長の目すら、しっかり見られないでいる。

「さあさあ、座りなさい」

再度、腰かけるようにと言われたので渋々腰を下ろしたが、両手を膝の上で合わせ、うつ向いた。

「あおいは長いまつげをしておる。のう三郎、そう思わぬか」

信秀の言うように、うつ向いているあおいの、伏見がちの大きな目を、長いまつげが飾っている。

信長は何も答えなかった。あおいを真ん中にして座り、脇差の柄を、右手で弄んでいる。

「のう、あおい」

信秀は言うと、自分の膝を軽く叩いた。

「織田家を、末永く見守ってはくれぬか」

「えっ」

信秀の真意がわからず、あおいは顔を覗き込んだ。

「お前なら力になれる」

信秀はそう言ったきり、黙って空を見上げていた。薄雲は切れ、青空が広がっていた。重なる戦の疲れなのか、信秀のその横顔は険しく、うら悲しくもあった。あおいはその横顔を生涯、忘れない。

突然の訃報が届いたのは、僅か半月程のことであった。

流行病にかかり、暫く病床に伏せていたが、祈祷や治療の甲斐なく享年四十二歳で織田信秀は死去した。

織田信秀という人物は、元々家格の低い地位でありながらも、一代で戦国大名として活躍した。苦戦、敗戦を乗り越え、尾張各地、一時期は西三河までをも支配し、商業都市津島の利権を高め、熱田を支配、経済力を蓄え、商業の活性化を図った偉大な武将である。

信秀の葬礼は生前、自身が建立した万正寺にて盛大に執行された。国中から僧侶を集め、旅の僧侶を含めて三百名にも及んだと言われる。

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