第3話 くちづけ

あおいが、この世界にタイムスリップしてから、およそひと月が経とうとしていた。あおいに頼まれた信長が、那古野城内での住いと仕事を与え、あおいはいま、信長付の侍女として働いている。その仕事内容というと、朝は日の出前に起きる。そして水練、馬術、竹槍の練習から戻る信長の為、湯殿の掃除、湯殿で着用する湯帷子、下着、小袖を用意をした。湯を沸かしたり、信長の身体を洗うのは湯女の仕事であり、あおいはその間、湯殿の外で待機した。

信長が湯殿から上がるのを見届けると台所へ行き、朝食を用意する。朝食が済むと、信長は大抵、町に出掛ける。その間に、信長の居室の掃除をするが、これが一苦労である。信長は極度の潔癖症で、例えば、板張りの床は、まるで鏡の様に、顔が映り込むほど、磨かなければならない。しかし不手際があっても、信長はあおいや他の侍女を叱ったりはしない。ただ、彼は嫌味に指先で誇りをなぞり、そっと翻して侍女にらに見せる。それがプレッシャーなのだ。問題があるのなら、指摘してくれればいいのにと思う。

様々な仕事を終え、漸くあおいも朝食が取れる。新米の彼女はひとりで準備をし、他の侍女との隔たりを感じながら、台所の隅で食事をする。

午後になると、夕食の支度をするが、信長の帰宅までは実質、自由時間である。居室に戻り、小袖のほつれを裁縫をしたり、昼寝をして過ごした。

信長の帰宅は容易にわかる。なぜならば、彼はとても豪快に歩く。板張り床に足音が響き、同時に「戻った」と、良く通る声を発するからだ。

夕食が終わると、もう一度、湯殿の準備に取り掛かり、信長の入浴中に夜具を敷く。これで、全ての仕事が終わる。大体20時には、信長は就寝していた。

この日あおいは、夕食を終えた信長に呼び止められた。初めてのことである。

「あおい、酒の用意をしてくれないか」

「お酒、お酒を召されるのですか?」

「ああ」と信長はうなずいた。

 珍しい

信長は好んで酒を飲まない。どちらかと言えば、干し柿や、真桑瓜などの、甘い食物を好んでいた。

台所に行くと、ほかの先輩侍女らが慌ただしく、夕食の片づけをしていた。

「殿がお酒を所望されています。お酒は、何処にあるのでしょうか?」

「お酒、殿が?」

そう、大きな声で答えたのは志保である。背の高いあおいを凌ぐほど、大きく骨太。髪はなぜかおかっぱ。顔は顔面米俵といった風貌で、目、鼻、口は顔の面積に対して、異常に小さかった。あおいの事を最初から目の敵にしている人物である。

「殿が酒って、なんかの聞き間違いじゃないのか」

言いながら志保は、戸棚から徳利を取り出し、酒樽から酒をそそぎ、沸騰した湯につけた。

すみませんと、あおいは頭を下げた。

「なにゆえ殿は、あんたみたいな女を傍に置いたりするんだろうね」

「さあ」

首を傾げるあおいの全身を、志保は何度も見上げたり見下ろしたりしている。

「趣味が悪いね、殿も」

「そういう事ではないと思います。身寄りも頼る場所もないわたしを不憫だと思い、お城に寄せてくれたのです」

「だろうね」

そう言うと、志保は徳利を湯から取り出した。

「しかしね、言っとくけど、あんたが殿付きになったおかげで、仕事を外されて泣いている女がいることを忘れるんじゃないよ」

言っている志保の後ろで、数名の侍女らの、強く厳しい視線を感じた。これはいつものことである。

「ほら」

志保は、あおいの胸に、徳利の乗った盆を押し付けた。


「お前は、飲めるのか?」

盃に酒をそそいで立とうとした時、信長は言った。

「えっ、お酒は未だ」

顔の前で手をふり、少しならと付け加えた。未成年でもあるので、これまでアルコールを口にしたことはないが、最近、夜の寝つきが悪い。戦国の夜の闇はあまりにも暗く、寂しい。アルコールを飲めば、眠れると聞いたことがある。眠り薬として飲んでみようと思った。

信長が酒をそそいでくれた。あおいは、一気にその酒を飲みほした。胸の中を熱いものが過ぎると、頭がふわっと軽くなった。

「幾つだ?年は」

「十八になります」

「一緒だ、わしも今年で十八になる」

「殿は、十八だったのですね?」

なんだか嬉しくなった。ここに来て、まともに会話をしてくれるのは、信長以外にいなかった。その信長が自分と同年代と聞いて、急に親近感が湧いた。

「だれか」

信長が部屋外に声を掛けた。「はい」と、遠くから侍女の声がする。

あの声は

あおいの不安は的中、志保がいそいそとやって来た。

「酒と、なにか肴をみつくろってくれ」

「かしこまりました」

志保は、廊下に膝を着いたままで、顔を上げることはなかった。志保が扉を閉める前に、あおいは立ち上がった。

「それなら、わたしが」

「お前はここで、わしの相手をしてくれたら良い」

「しかしそれでは」

「まず、座れ」

「はい」

志保の足音が遠ざかる。これからの風当たりを考えると、気が重い。困った、あおいは自分の顔に手をやった。その手を信長が取り、あおいの顔を覗き込むようにした。

 近い。どうしたの

信長は端正な顔立ちだった。酒で染まった頬と、胸元。眠たそうな半開きの目。思わず、見とれてしまう程に綺麗だった。

 この人、本当にあの織田信長なのかしら

そう思った時、信長の顔が更に近づき、そっと唇がふれた。驚きで、あおいの目は見開いたままだ。片手を信長の胸に当て、向こうに押すと、信長はそっと離れ、気まずそうに部屋を出て行った。

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