第5話 険しい道のりへの第一歩

「そろそろ参られますか?」

那古野城、信長の居室前廊下であおいは尋ねた。

もうかれこれ二時間になる。訃報を聞いた信長はじっと部屋の中にいた。傅役の平手政秀も、一向に葬礼に向かう様子のない信長にヤキモキしている様子である。

「若は、一体、なにをしておられるのじゃ」

「はい、先程からお声掛けはしているのですが、お返事がなく」

このやり取りを何度も繰り返している。

平手は長い廊下を行き来している。襖越しに声を掛けるも、信長はなしのつぶてだ。返事がないのに、勝手に襖を開ける訳にも行かず、どうしたら良いものかと悩んでいた。すると突然、目の前の襖が、バンと勢い良く開いた。

「出掛けるぞ!」

「若っ、若っ、お着替えを…」

平手が信長を追いかける。信長は、着物を袖脱ぎにした着流し、腰には長柄の太刀と脇差を藁縄で巻いていた。

「殿、着替えは。あっ、平手殿、お待ち下さい」

あおいも自分の右わきに置いてある、肩衣・袴といった礼服の入ってある木箱を手に、慌てて平手を追った。

馬で駆けていく信長を追う平手。礼服を風呂敷に包み、たすき掛けにして、あおいも駆けた。

平手を追い抜き、信長まで近づくと声を掛けた。

「殿、礼服に着替えて下さい」

「案ずるな、このままで良い」

信長は言うと、馬を鞭打ち疾走した。

万正寺に到着。

三百人とも言われる僧侶の経が、境内の外まで響き渡る。焼香に訪れた人々の多さに、あおいは肝を抜かれた。信長の到着を知った家老の、林秀貞、青山与三右衛門、内藤勝介らが駆け寄ってきた。それぞれが、喪主である信長の服装を見て仰天、落胆の色を隠せないでいる。

「殿は何を考えておいでだ」

「織田の大うつけが!」

「当主にふさわしくない」

信長を批判する声は、列席者からも多く囁かれた。対し、信長の弟の信行への賛美の声が。

「流石、勘十郎殿、兄の信長とは大違いだ」勘十郎とは信行の仮名である。年の変わらない兄とは違い、礼装に包まれ、折り目正しい。

「勘十郎殿こそ、弾正忠家の当主にふさわしい。それに引替えあのうつけは」

当の信長は意に介さない様子である。

「若、せめてお着替えだけでも」

平手に取りつく島も与えず、祭壇の前まで突き進んだ。

「お前、なんという無礼!」

声を震わせ言ったのは、信長の実母の土田御前である。武家の習いとして、嫡子である信長は生まれて直ぐに母親から引き離され、乳母に育てられた。その乳母にとても懐いていた信長を疎ましく思い、土田御前は自身の手で育てた弟の信行を溺愛していた。夫信秀が、信長の乳母を側室にしたことも、土田御前が信長を嫌う要因となっていた。

土田御前の傍らには、未だ幼い市がちょこんと座っていた。大きな切れ長の一重が愛らしい。

「勘十郎」

喪主である信長の席に座る信行を横目で見た信長は、顎に手を当て、こう言った。

「幼いのう、未熟すぎて、母の手を借りねば一人で歩くこともままならぬ様子だ」

「愚かな、信長」

母の土田御前は信行を庇う様に、身体を張った。

「お前のその姿を見よ。みすぼらしい限りじゃ。これで織田家を継き守ることが叶うとは到底思えぬ。お父上もさぞお嘆きであろう。のう勘十郎」

「母上、相手にする必要はございませぬ。兄上は葬礼を侮辱しておるのです」

信行の周囲には、柴田勝家、佐久間盛重、佐久間信盛など、織田家のそうそうたる面々が居並んでいる。

「勘十郎、お前、所詮は次男である。それを忘れるな」

信行を侮辱されたと思った土田御前は顔を赤らめ、膝の上の拳を握り締めた。

「黙れ信長。勘十郎とお前とは違うのだ。恥を知りなさい」

余程、信長が憎いのか、土田御前の信長への眼差しには、愛情の欠片も感じられない。

あおいは、祭場の隅で、平手と並んでその様子を見ていた。

「仲違いをしていたなんて……」

「あおい殿、愛情というのは、複雑でござるよ」

「え?」

「若様のお顔を御覧なさい」

夕暮れの赤い日差しが信長の横顔を差していた。父の位牌を睨む信長は、泣いているように見えた。

半月ほど前、庭先で、三人並んで座っていた時のことを思い出す。その時の信長は、多くを語らなかったが、信秀と過ごす時間を楽しんでいる様に見えた。

あおいは緊張していたが、「織田家を見守る」という信秀の言葉が、胸の奥に刺さったままである。信秀の真意はわからないが、やさしい眼差しは鮮明に覚えている。戦乱の世にあって、その空間はとても稀有で穏やかだった。


信長が祭壇に向かっい合ってから数分が経っていた。何を思ったか彼は、突然、焼香用の抹香を掴んだ。

まさかと、あおいは口元を覆った。会場がざわつく。信長は掌の抹香を、父親の位牌に投げつけた。

「あああー」

平手政秀は頭を抱えてその場にしゃがみ込んでしまった。

「殿……」

その場は騒然となる。誰もが、口々に信長を「大うつけ」と取り沙汰した。土田御前に至っては、意識を失うほどに取り乱している。

「母上、母上」と、信行が母親を気づかうが、信長はその様子を見切ったように、その場を立ち去った。

「殿、」

あおいが、信長を追いかけようとした時、傍にいた僧侶に声を掛けられた。

「あのお方はご子息ですか?」

あおいは颯爽と立ち去る信長の方を見ている。

「あっ、はい。織田信長様で御座います」

「そうで御座ったか。ならば案ずることない」

僧侶は、目じりにやさしい笑みを浮かべた。

「あの方こそ、国を治める武士である。では」

そう言って、僧侶はそっと、その場を後にした。

「あっ!」と我に返り、あおいは、馬を繋いだ場所まで必死にかけた。

那古野城までの道のりを、あおいは一人で走っていた。夕方の、春の風は頬に冷たかったが、馬と一体になっている自由さは悪くなかったので、つい遠回りをしてみた。葬儀の帰り道だというのに、自由を求める自分の感情が不謹慎にも思えたが、この解放感をもう少し、味わいたかった。

広い平野に出ると、遠くに人の影が見えた。それが信長だと気づくのに、そう時間はかからなかった。

馬の速度を落とし、ゆっくり信長に近づいた。

「どうした?」

こちらを見ずに、背後のあおいに信長は声をかけた。

「少し寄り道をしました。すみません」

「まあ、良い」

馬を信長の隣に寄せた。信長の馬は、あおいの馬より体高がある。あおいは、信長を見上げるようにしてみた。仏前の時と同様、哀しい横顔をしていた。

「美しい景色じゃ」

信長が小さく言った。

「本当に」

遮るもののない、尾張平野に日が沈み、一帯をオレンジ色に染めた。初めて見るその風景は、あおいにとって幻想的でもあった。

「帰ろうか」

信長は声には出さず、唇を動かしてそう言った。

幼少期から母に疎まれ、愛情を知らずに育った。その上、織田家臣団からの信頼も薄く、世間から逸脱して生きる信長を、常に庇い愛してくれたのは信秀だった。

信秀の死は、18歳の信長を突如として荒海に放り出ずこととなる。

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