第28話 探偵業務は内密に
「とにかくパウンドケーキは現状維持の納品で大丈夫だから気にすることはないよ。夏休みとか時間が取れる時にちょっと増やせばいいだけだから」
『みの屋』の女将さんと別れたあと、『二歩』に向かう道すがらでマスターは藍を励ますような言葉をかけた。
「あ、ありがとうございます。それにしても、すごい人気があるんですね……」
「そうみたいだね」
マスターがあまり関心がないような口調で返答すると、内藤さんがすかさずフォローするように話し始めた。
「『みの屋』もオープンして一年も経っていないけどすっかり将棋めしの聖地の仲間入りになっているからな。近所の人もけっこう行っているぞ。サッパリした和食が美味しから年配者にも合うんだよ。休日は将棋めし巡りをしている子達が大挙として押しかけているから店にはいかないけど、もう少し若けりゃ、将棋ファンの女の子たちと仲良くなれたのにな。ちょっと遅すぎた。ま、女将はド派手だけれど」
「内藤さん、女性に対してそんな言い方はダメだあよ内藤さん。服のセンスも人それぞれだ。自分の好みをあれこれ言うのはご法度」
「あ~、これだから邦ちゃんはモテモテなんだよな。とにかく女性に優しい上にこの容姿。女将も俺なんか眼中になかったもんな。俺も邦ちゃんみたいな色男に生まれたかったよ。今から男性用の化粧水とか使ったら少しはモテるようになるかな?」
内藤さんの本音や愚痴を聞いた藍は思わず笑い声をあげてしまった。
「なんだ、お嬢ちゃんも酷いな。男は年を取っても女性からよく見られたいという願望があるもんなんだよ。なぁ、邦ちゃん?」
「さて、どうでしょうか」
「冷たいな。俺だって店に通って邦ちゃんみたいな立ち振る舞いとかできたら良いなって思っているんだけど、ちっとも似てこない」
「私に?」
「そうそう、邦ちゃんみたいになりたいんだ。だけどよ、どうしてもダメ。お嬢ちゃん、どこをどうすれば邦ちゃんみたいになれると思う?」
藍は内藤さんからの問いかけに瞬時に反応することはできなかったが、頭に浮かんだことを口にしてしまった。
「そうですね……。ただ、所帯持ちで『モテたい』と考えるのはトラブルのもとになるかな、と思ってしまうんですけど」
その言葉を聞いたマスターの表情は一気に崩れ、お腹を抱えて笑い出した。横では内藤さんが自分の孫と同じくらいの女子高生から鋭い指摘をされてバツの悪そうな顔をしていた。
「これは参ったね。ぐうの音も出ない名回答。お嬢さんの言うとおりだよ内藤さん。奥さんもいてお孫さんもいて、退職しても探偵として働き後輩に慕われている。さらに求めるのは強欲かもしれない」
「強欲か……。俺は小さい頃から我慢の連続で、安定した生活を送っているからいまさらながらに欲が出ているのかな。でもよ、やっぱり女性から『素敵なおじ様』と思われたいんだよ。分かってくれよ、俺の気持ちを」
「今でも十分素敵なおじ様ですよ、内藤さん。ユーモアたっぷりですし、毎回お話をして笑わせてもらっている私からしたら十分『素敵なおじ様』ですけど」
「ほらね、女子高生にも言われたんだから、今の内藤さんのままで魅力的なおじ様なんだよ」
マスターにそう言われ、しぶしぶ納得した内藤さんは『二歩』に戻ると大きなため息をついた。
「でもよ、邦ちゃんはいいよな」
「またその話をぶり返されても、私は何も言わないことにしたから」
釘を刺されると『モテ男になりたい』という話を引っ込めた。そして、それまでとは打って変わって真剣な表情で話し始めたのだ。
「スリの話は後輩たちに任せるとして、最近この辺りで変な事件が起きているんだ。お嬢ちゃんにもメールで伝えたように赤い絵の具事件。絵の具と言っても、消えやすい塗料みたいで朝方発見される時はほとんど消えている。隣の奥さんが毎朝犬の散歩で鳩森神社付近を歩くそうだが、複数回赤い塗料がうっすらと残っているのを見ていてね。そうだろ、邦ちゃん?」
「変な話なんだけど、彼女の話では『前日の夜に雨が降っていた日』『雨が降っている日』に限定されているようだ。消えているから最初は気にしなかったそうだが、立て続けに目撃して気持ち悪くなったみたいでね。それで、内藤さんに街の平和を守るため依頼をしたということなんだ」
藍は内藤さんからメールで聞いていた事件と大分違うことに心の中でツッコミを入れた。ミステリアスな事件かつ、謎の組織でも関わっていると思っていたが実際はそうではなさそうだった。
(雨で流されるのを分かった上で、それを承知して犯人は何かを描いたりしているのかしら……)
「えっと、おそらく消えることを前提にして『何か記している』ということでしょうか。それとも、赤いということは動物などの……」
「動物虐待とかではないな。血液検査は無反応だったから事件性は低い。ただ、こう頻繁に起きると町内会の人も気持ち悪く感じるだろ? 俺もこの界隈に住んでいるけどやっぱり嫌だな。ユミに何かあったら大変だ」
いつもの席に座った内藤さんはそう言いながらテーブルに手を叩いて訴えた。
「明確に事件ではないけれど、どんな人間が何の目的でやっているのかを知りたい。大きな事件に発展しそうなら早めにその芽を潰しておきたい。内藤さん、そんなところかな?」
「その通り! ただ、目撃情報が全くない。事件になっていないし異変に気がついているのも俺が把握している範囲では隣の奥さんだけ。邦ちゃん、何か耳にしているかい?」
コーヒーを淹れながらマスターは小さな声で内藤さんの問いに答えた。
「木原君も赤い液体を見たそうだ。ただ、彼の場合は雨の降る夜だけど」
「なに! もっと詳しく教えてくれ!」
重要な証言を聞いた内藤さんは勢いよく席を立った。
「コーヒーを飲んで一旦落ちつきましょう、内藤さん。雨が降り始めた夜、鳩森神社の近くの街灯の下を赤い液体が流れているのを見たと。ラーメンを食べに来た時に教えてくれたよ。さすがの彼も最初は驚いたみたいだけど、動物の死骸とか見当たらなかったし臭いもなかったからそのまま帰ったそうだ。ただ、スマートフォンで写真を撮ったと言ってたな」
「画像は、画像は見たのか、邦ちゃん?」
「今度、高画質で写真を印刷してくると言っていたよ」
「印刷? マスターのスマートフォンに転送すれば済みますよね」
「たしかにそうだね。お嬢さんのご指摘の通り。でも、印刷すると言ってたから待とう」
「そんな悠長なこと言ってたら、解決することも解決できなくなるぞ。で、兄ちゃんは写真を撮っても何も変なところはなかったと?」
「彼が何も言っていないのであれば、気になるところは無いのかなと思うけど。ただ……」
「ただ?」
「ただ気になったのが一つあって、雨が降ってまだ時間が経っていないのに赤い液体がすでに流れていたと。木原君は『何か描いていたらそんな短期間で流れないと思います。最初から流れることを想定して短時間で誰にも見られないようにしているのでは』と推理していた」
木原さんの推理を聞いた藍は、自分と同じ考えでいることに気がついた。
(木原さんもそう感じているのか……。年齢が近いからなのかな? それとも、思考回路が似ているとか。いやいや、そんなわけないか)
「兄ちゃんは、次に来るのはいつになりそう? いつもふらりと立ち寄るから全く行動が読めないんだよな。邦ちゃん、連絡先知っているなら聞いてくれよ。『内藤が話を聞きたがっているからいつ来るのか教えて欲しい』とね」
「彼の連絡先は知っているけど、全くメッセージを確認しないと思うよ。一応、送ってみるけど、あてにしないで」
藍は木原さんがまめにスマートフォンをチェックする姿を想像できなかった。マスターの指摘通り、彼は現代の利器を持ってはいても写真を撮るくらいで人と連絡をすることに興味関心がないことは、これまでの言動を見ていても薄々感じるところはあった。
「赤い液体の跡があるのは、必ず雨が降る時や降った後。そして、場所は必ず鳩森神社周辺ですか?」
マスターからアイスティーを受け取りながら、藍はポツリと呟いた。
「そう。不思議なことになぜか鳩森神社の周辺だけ。これからもっと範囲が広がるかもしれないけれど、今のところは範囲が狭い。現敵されている。そして、それが目撃されるようになったのはつい最近。ただし、隣の奥さんのみ。五月の中旬くらいと言っていたかな」
内藤さんが説明すると、マスターも隣の奥さんのまとめた。
「もしかしたら、その前からあったかもしれないし、なかったかもしれない。隣の奥さんは毎日決まった時間に台風とか来ていない限り雨の日でも犬の散歩に行くから、見逃していたということはないだろうね。だから、犯行というと大げさかもしれないけれど、事件発生はやはり彼女の言う通り三週間くらい前からと考えるのが自然」
「なるほど。それが断続的に続いているわけですか……」
アイスティーを一口飲み、藍は色々と考えてみようとしたが内藤さんの大声で思考は中断した。
「その通りだよお嬢ちゃん! 週間天気予報と睨めっこして雨が降りそうな日があれば張り込みをしようお思っているのに、この先一週間は梅雨入り前の晴天続き。探偵業務に支障をきたすな」
梅雨入りが近づいているが、あいにく直近の一週間は高気圧に覆われるという予報を藍も天気予報で耳にしていた。関東地方も雨が降りやすくなるのは十日先になる。それまで情報収集に徹するしかないと内藤さんも腹をくくっている様子だった。
しかし、そんな内藤さんを見透かしたマスターが大胆な予言を言い出した。
「毎日雨が続いても、本当に犯人は必ず鳩森神社周辺に来る確証はないよ。いきなり途絶えたらそれはそれで不気味だけど、場所を変えるかもしれない」
「ちょっと邦ちゃん、そんなこと言い出すのは勘弁してくれよ!」
「もし、万が一にでもこの界隈に住んでいる人がやっていたら、どこからか噂を耳にして場所を変えた、雨が降らない日に実行すると行動パターンを変えてくると思う。本当にバレたくなければそれくらいのことはするだろう」
「そうですね。マスターの指摘もあり得ます。これまで、隣の奥さんが三回ほど目撃し、木原さんも一回目撃している。木原さんは喋っていないと思いますが、奥さんがあちこちで話をしていたらマスターの推理通り行動を変えてくる可能性は高いかと」
「邦ちゃんは誰かに喋ったか?」
内藤さんが気まずそうにオドオドしながらマスターに問いかけた。
「隣の奥さんから聞き、内藤さんに相談し木原君に話をしたくらいです。お嬢さんは内藤さんからの連絡で少し知っている程度。内藤さんはどうです?」
「お、俺はだな……。ばあ様に言ったかな。うん、多分言っている」
「ユミちゃんには?」
「いや、妙に変な事件だろう。だからユミにも『気をつけろ』と注意したな、うん……」
「ということは、内藤さんの奥さんとユミさんから話が広まっている可能性がある、ということか」
「そ、そうかもしれないな……。いやだってよ、近所だから。普通は調査中の事件を身内に言ったりしないんだけどよ」
「内藤さんの言う通り、人的被害が出ているわけじゃない。ただ、相手は雨が降らない時も実行するかもしれない。天気がいい時も張り込みが必要だね」
マスターが必殺技のウィンクを内藤さんにすると、降参っしたとばかりに両手を上げて呟いた。
「邦ちゃん、俺はまちの平和のためにも必ず犯人を見つけるぜ……」
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