第26話 千駄ヶ谷門への道すがら
「えっとだな、事件があったのは新宿御苑で……」
新宿御苑を管轄する四谷警察署で被害届を一式提出すると、内藤さんが知り合いらしき警察官に話をしていた。
新宿御苑駅からすぐそばの警察署だ。向かう途中の道すがら、『わざわざ中の池に集合する必要もなかった』とマスターから指摘された内藤さんは苦笑いを浮かべていた。
「孫娘のもきっとイサムがやったと思うから、とりあえず被害届を出しといたほうがいいかな」
「そうですね。金品絡んでいないとはいえ、スリはスリですし、その方が裁判で……」
どんどん小声になる警察官の話を聞き取ることはできなかったが、これから裁判をするには被害者が多くいた方がイサムの罪状は重くなり、バックについているかもしれない組織の解明につながるかもしれない。
内藤さんの執念を垣間見た藍は、内藤さんが単なる隠居して片手間で探偵業していると思っていた自分を恥じた。
「とりあえず、届け出は出したから一区切りだ。これからのことは調査中だから色々と喋れないけど、一応ユミも被害届出しておくようにしておいた方がよさそうだな」
「ところで、ユミちゃんはもうマスコットから立ち直っているの?」
「二週間ばかりは落ち込んでいたけど、ばあ様が上手に和柄でマスコットを作っているのをみて『オリジナルのを作って』と頼んでさ。すっかり忘れているよ」
「若いね。立ち直りが早い」
「なんだ、邦ちゃんは立ち直りが遅い性質なのか?」
「いや、過去はきれいさっぱり忘れるから1ヶ月前の出来事も覚えていない」
「ならユミの件も覚えていないはずだろう」
「おっと、これは失礼しました」
二人の掛け合い漫才のような会話は警察署内には似つかわなく、藍は笑いたいところを必死になってこらえた。
警察署の出入り口のところで内藤さんが大きく伸びをしながら藍とマスターに向かって言った。
「ご足労おかけいたしましたが、これにてアノ件はひと段落したわけだ。あとは捜査の成り行きを見守るしかないな」
「どうする? 店に寄ってプチ打ち上げでも使用か。お嬢さんも家に帰るには早いでしょう」
マスターの言葉にドキリとしながら、濃い紺色の腕時計を見た。確かに時刻は11時を少し過ぎたところだった。
「また新宿御苑を通って千駄ヶ谷に向かうか、それとも明治通りから戻る。または地下鉄に乗って北参道で降りるか。どれがいい?」
メガネの奥の眼は笑みを帯びつつ、マスターは3人組の中で最年少の藍に意見を聞いてきた。
「天気も良いですし、やはり新宿御苑を通って戻ってみるのはどうでしょうか」
藍の言葉に内藤さんが反応した。
「梅雨前のいい天気の土曜日。梅雨前線とかそんな言葉がテレビで聞こえてくる季節が今年もやってくる。快晴の今日は絶好の散歩日和だな」
清々しい五月晴れの終わりを告げるような日に、散歩しないのは勿体ない。そんな風に内藤さんは言うと、先陣を切って歩き出した。
「そういえば、今日は木原さんはいらっしゃらないんですね」
「あぁ。彼、ちょっと学校の方が忙しいみたいなんだ。二日前に顔を出してラーメンを食べて帰って行ったけどね」
「レポートの提出とかですか。大学生は暇だとか言いますけど、単位を取ったり就職活動に有利になるように資格を取ったりと大変だって聞きます」
「お嬢さんも、大学進学を?」
「そうですね、一応」
「となると、実家の八百屋は……」
「弟が継ぐ気満々です。商売人の素質があって野菜や果物を使った料理とかスイーツを考案して有名レストランと提携するとか。手を広げたいみたいです」
「まだ、中学生だっけ? 夢があっていいね。今二人がやっている『パウンドケーキの卸売り』も大きな一歩に違いない」
「いえいえ、あれはマスターの提案のおかげですから。でも、弟も自信がついたようでほぼ毎日パウンドケーキを作っています」
「そうなんだ。それなら、学校の帰りとか土日に店に来てもらうのを控えた方がいいね。人出が足りなくなるのは困るでしょう」
「いえいえ、大丈夫です。パウンドケーキを作るのは簡単ですから。本当に大丈夫です。これからも、お店に通わせてください。店番しますので」
「そんなに、味噌ラーメンが気に入った? それとも、何か他の理由があるとか?」
マスターの質問にドキリとしたが、平静を装い藍は答えた。
「味噌ラーメンの存在ですね。今まで食べてきたあらゆる食べ物の中でもトップ3に入ると断言します。もちろん、お店の雰囲気も好きなので。地元にも昔ながらの喫茶店はあるんですが、そことはちょっと違うんですよ」
「……北千住か。そうだね、浅草、南千住に北千住は昭和の雰囲気がまだ残っているだろうね」
「若い頃、江戸川や荒川で釣りをしにあの辺りに来たと以前口にしていましたが、もしかしたら当時立ち寄ったお店もまだ営業しているかもしれませんよ」
「どうだろうか……。もう大昔のことだから。それこそ、さっき内藤さんと話していたように『きれいさっぱり忘れている』状態だ」
寂しげに笑うマスターの顔を見た藍は違う意味でドキリとした。それ以上に気になったのが、言葉の語尾を強めている点だった。
(いつもはもっと優しい口調なのに、なにか嫌な思い出でもあるのかしら……)
二人は新宿御苑の丸花壇を過ぎて行き、千駄ヶ谷門へと歩いて行く。内藤さんの姿はどんどん小さくなっていくが、追うのも面倒だとばかりにマスターは自分のペースで歩き、藍もそれに合わせていた。
「とにかく、『二歩』に来るのは味噌ラーメンと探偵業に興味があるからと勉強場所の確保です。ついでに、学校に知られることなくお小遣い稼ぎもできますし」
「なるほど。アルバイト禁止の学校なんだ」
「そうなんです。でも、親からのお小遣いだけでは欲しいものとか買えないこともありますから」
「内藤さんところのユミちゃんは、アイドルが好きでコンサートのチケットやグッズ、洋服にお金を使っているみたいだけど。お嬢さんにも何か夢中になっているものがあるの?」
『夢中になっているもの』と聞かれ、藍は言葉を濁してしまった。千駄ヶ谷は将棋の街。将棋ファンに対して悪い印象は持っていないし、亀井晴也先生の登場で女性ファンが急増している。
それをマスターが知らないはずはないが、ミーハーだと思われたくなくて素直に『将棋ファンです。亀井晴也四冠が好きです』と言えなかった。
「そ、そうですね。本とか……」
「それだけ?」
「……あと絵画とか浮世絵ですね」
藍はお琴のお師匠さんの家に額縁に入れられ飾られている浮世絵を思い浮かべた。お琴の練習中の様子が描かれ、先々代が教室を開く際に知り合いの古美術商からお祝いにと渡された品だと聞かされている。
小さい頃から浮世絵や日本画に興味を抱くようになったが、将棋ファンを隠すためにとっさについた嘘だった。
「本なら希少本ではない限り買えるけれど、絵画とか浮世絵となるとそう簡単に手が出せないね。浮世絵は質を問わなければ手に入れられるけど、絵画作品は小さなサイズでも驚くような値段の作品もある。将来性のある芸術家の作品を投資目的で買う人もいるような世界だから」
「それは、バブルの頃の話ですか?」
「あの時代が異様なだけで、今もアート投資はジャンルが確立されている。あの頃みたいな『なんでも高値』の時代は過ぎ去っているけれど、本当に値が上がっていくのかという見極めを楽しめる醍醐味もあるよ」
「けっこう、その業界のこと詳しいですね。銀座の画廊にでも勤めたことがことがありますか?」
藍の問いかけにマスターは大袈裟に手を左右に振り否定した。
「喫茶店とかやっているとね、『店にこんな絵を飾りませんか』って営業がくることがあって。面白いから話をずっと聞いていると、投資の話を聞かされたりしたから自然と詳しくなっちゃったかな」
「そんな商売があるんですね。家にはそんな人が来たことないですよ。八百屋が買ってくれるとは思わないんでしょうけどね」
「そうかな……。下町の青果店のレジ横に水彩画で和野菜を描いた団扇とかを飾っているのも風情があるよ」
マスターの言葉を聞き、『やまぎわ青果店』の店の中にそんなものが飾られているのを想像してみた。
(う~ん、悪くない……。地元のお祭りのポスターとか貼ってあるくらいだし、イメージチェンジしてみるのも良いかも!)
「なんだか意外に合いそうですね。季節の野菜や果物の絵を飾るのは良いかもしれません。常連さんからは『どうしたの?』とか聞かれそうですけど」
「下町だと、年配の人がいる家には一つ二つくらいありそうだ。たいてい、男の方が収集癖があるから、知り合いのおじいさんとかに聞いてみるといいよ」
「男性の方が収集癖ありますか……」
「切手とかコインとかね。まぁ、若い頃は女性もユミちゃんのようにグッズを集めたりするだろうけど人生の変化で割とスパッと切り替えるのが早いんじゃないのかな。偏見だって言われるかもしれないけれど、男は大きくなっても趣味を貫いてしまうところがあったり大人になりきれないところがあるから」
「……そうですか」
「話がかなり脱線したけど、小さい頃から好きなことを貫けるのってすごいよ。ほとんどの人が途中でやめたり、他のことに目移りするから」
何気ない会話だが、グサリと藍の心に刺さった。藍には家族以外知らない、幼馴染の美帆でさえ内緒にしている趣味『蜘蛛採集』があるのだ。
(大きくなったら、これまでと同じように蜘蛛収集ができるのかしら……)
藍は初めて子どもの頃からずっとやっている蜘蛛採集が大人になっても継続できるかどうか考えた。当たり前すぎて疑問に思ったことがなかったが、この秘密を誰かと共有し、理解してもらいたい日が来るかもしれない。
(趣味としてやっているけど、蜘蛛採集が当たり前の職種や研究職に進むしかないのかな……。そ、それとも、あの時の亀井先生みたいに、亀井先生みたいに蜘蛛に理解のある人と……)
自分の将来や蜘蛛採集のこれからを思うと憂鬱な気持ちにもなる一方で、あの衝撃的な出会いを思い出し顔を赤らめた。
そんな中、派手なオレンジ色のシャツとピンク色のシフォンのプリーツスカート姿の見知らぬ女性が親し気に声をかけてきた。
「あら、マスターこんにちは。娘さん? お孫さん? それとも……」
「どちらも不正解。こちらは例のパウンドケーキの製作者の一人である、北千住の青果店のお嬢さんだよ」
「あら、あのパウンドケーキの! 嬉しいわ。すごい大評判でね。そのことでお話がしたいから、さっき『二歩』に行ったのに留守にしているから探していたのよ。天気が良いからこっちに来ているかと思ったら、内藤のじいさんとすれ違ってね。『俺の後ろを歩いている』なんて言ってたから。まさか女の人と一緒だと思わないから驚いたけど。内藤さんはあそこにいるから。ねぇ、内藤さん! こっち来てよ」
マシンガントークの50十代半ばと思わしき女性の正体が把握しきれず、戸惑っている藍を見たマスターが、すかさず教えてくれた。
「こちらは『みの屋』の女将さん。パウンドケーキを買い取ってくれている定食屋さん。ここ最近、休日は若い女性が来店していると耳にしたけど、テレビにでも取り上げられたのかな?」
若い女性が押し寄せた理由をを良く知っている藍は、どんな話が聞けるのか嬉しい反面、聞きたくないような事実も教えられるのではないのかと身構えた。
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