第25話 梅雨目前は不穏な空気に包まれて

 新宿御苑前駅を降り、大木戸門に向かうと土曜日かつ天気も良いこともあり周辺は賑わっていた。


 季節はサツキの時期を過ぎ、梅雨に入る手前ということもあり初夏の爽やかな気候につられて都会のオアシスに人々が吸い込まれて行くように入っていく。


 そういう和やかなムードの中、『探偵』という特別なミッションを密かに遂行している藍はのんびりと花々を見て回りたいところだが、マスターと約束をしている。


 和やかなムードで御苑を出入りしている人たちを尻目に藍は先方にメッセージを送った。


『今、大木戸門を過ぎました』


 とりあえず連絡はしたとばかりに、マスターから返信がくるまで植木に蜘蛛が隠れていないかどうか探そうと姿勢を低くした。こうしていると、また亀井先生に声をかられるのではないかという淡い期待も抱きながら……。


「もしもし」


 突然、背後から声をかけられた。


(も、もしや……)


 期待と不安の中、勇気を振り絞って振り返ってみると、そこには満面の笑みを浮かべるマスターの姿があった。


「あぁ、良かった。違う人だったらどうしようかと一瞬声をかけるのに迷ったけど、その大きなリュックサックを背負っている子はあまり多くないしね。それに、キャベツのマスコットをぶら下げている子も滅多にいないから」


 ネイビーのポロシャツにベージュのスラックスに手入れの行き届いた茶色の革靴。濃い茶色のボディバッグを肩から掛けているが全く若作りしている風に見えない。


 シニア向けの雑誌から飛び出してきたような風貌もあり、近くを歩くご婦人たちがチラチラと何気なくマスターを見ているのを藍は見逃さなかった。


「てっきり『中の池』の方にいるのかと思っていたので、驚きました」

「ちょっとこっち側に用事があってね。それより、内藤さんは先に池の方に行っているみたい。また色々とあって、忙しくして最近は見せに来るのも週4日くらいになっているんだよ」

「そうなんですか? お店の周辺で変な事件も起きていると連絡があったのですがま新宿御苑に集まるとなると例の事件がまだ解決に至っていないのでしょうか……」

「赤い液体事件ね。あれには地域の人も不気味がってね。とりあえず警察にも伝えているんだけど、被害が出ているわけでもないから積極的に動かない。パトロール強化と言っても限度がある。そんなこんなで内藤さんに真相解決の依頼がきたというわけだね」

「無害の液体みたいですけど、やっぱり目的とか気になりますよね。あと、あの界隈では内藤さんは有名なのでしょうか? 私的にはマスターの方がよっぽど……」


 そこまで言うと藍は口を閉じた。


 どうみてもおじいちゃんと孫には見えない二人をご婦人方は会話に耳をそば立てて、訝しい様子で見ている。その視線に圧倒され、藍は早く内藤さんと合流したくなった。


「私の方がよっぽど?」

「……。あの、喫茶店を営業しているので地域の人との交流が多そうに思えるのですが」


 藍に合わせるように早歩きで歩くマスターの息は全く乱れていない。そのおかげで彼女はご婦人連中の渦巻く嫉妬の渦から逃れることができた。


「私はあの界隈には住んでいないからね。だから、長年ずっと住んでいる内藤さんには敵わないよ。それに、店に来るのは限られた人だけ。内藤さんや木原君が例外でしょう。あと、あなた方二人もね」

「私と美帆ですか?」

「そうだね。お店の外観もあんなだし、レトロブームでも勇気を出して足を踏み入れる人はいないと思うよ。おっと、忘れていた。お嬢さんはこの界隈とは無縁の人となかで初めて一人で入店した記念すべきお客様でした。あとは隣の奥さんだ。彼女を常連の仲間に入れてあげないと失礼だね」


 そういうと、マスターは必殺技のウインクを見せてくれた。


(こんなの見たら、さっきの御婦人方全員が卒倒する。絶対に!)


 何度目かのウィンク攻撃を受けた藍はいつものように攻撃力の高さを感じつつ、マスターが口にした『この界隈とは無縁の人のなかで初めて一人で入店したお客さん』が妙に気になった。


「あの、木原さんはどういう経緯でお店の常連になったのですか? やはり内藤さんと同じように千駄ケ谷界隈に住んでいるとか……」

「あぁ、木原君ね。彼は新宿御苑が好きでね。たまたま新宿御苑を散策して千駄ケ谷方面に足を向けたら味噌ラーメンの匂いに誘われてっていうパターン。そうか、お嬢さんと全く同じだ理由か」


 マスターの説明を聞きながら、自分と木原さんの嗅覚や味覚が似ていることを改めて思い知らされた気分になった。


(なんだか、やっぱり味噌ラーメンのせいなんだ。あの匂いがなければ、絶対にお店の前を素通りしている)


「味噌ラーメンは好きは、木原さんと私くらいですか?」

「そんなことはないよ。私も入るから三人だね。昼ごはんに美味しいラーメンでも食べたいな、と思って作っていたら彼がふらりとやって来たんだ。自分用に作っていたのに、お客さんに出す羽目になった。しかも、価格なんて設定していない。とりあえず、三百円だけ頂いたけどね」

「三百円とは、激安ですね。今の五百円も激安に変わりはありませんが」

「入店した時、なんだかお金を持っていなさそうだったから。いくらなら払えそう、って聞いたら『三百円』と」


 マスターの『お金を持っていなさそう』という言葉に藍は思わず吹き出した。まさかこんな風に思われていたり、言われていると木原さんも想像していないだろう。


「手ぶらで、お店に入ってきたんですか?」

「……。そういうわけじゃないけど、お金は持ってない感じだったからね。だからこっちも思い切って聞いた。どうも、味噌ラーメンだけじゃなくてそういう態度が気に入ったみたいで店に来るようになった」

「木原さんに気に入られた、という感じですか……」

「まぁ、そんなところかな。彼はあまり自分のことを話さないから本心は分からないけれど、時間があれば店に来るし、この前の事件の時は色々と推理するし。『二歩』を気に入っているんだろうね」

「そうなんですか。そういえば、私は隣の奥さんとはまだ一度もお会いしたことありません。平日の日中にしか顔を出さないから行き違いになっていますね」

「隣の奥さんは回覧板のついでと、5のつく日にしか来ないから。一週間に一回の頻度。あの人はいつもサンドイッチとミルクティーを頼むから、その日に合わせてサンドイッチのパンとかを準備している。楽だよ、こちらとしては食品ロスしないで済むから」


 話を聞きながら藍は、話好きそうな隣の奥さんは来るのに他の女性客が全く来ない深い理由を考えた。 


(内藤さんに比べると頻繁ではないけど、週一のペースを作ってマスターとの時間を楽しんでいるのいるのかもしれない。あの容姿なら女性ファンができて絶対にお店に来る。でもライバルが増えるから、絶対に隣の奥さんは友達に言っていないに違いない……)


 藍は女性の心理戦を考えつつ、恐ろしくなってきた。それでもマスターはそんなことも気にせず、平等勝淡々とお客さんに接している様子が浮かんでくる。


「お、早いね、もう内藤さんは来ているよ。ほら、時計を見ているから待ちくたびれているのかもしれない」


 マスターが指さす方向を見ると、腕時計を見ている内藤さんがベンチに座っていた。厚手のグレーの格子柄のポロシャツ姿と、この陽気で半袖に変わり普段から似たような服を着ている内藤さんも衣替えの季節に突入したようだ。


「こっち、こっち! もう待ちくたびれたよ」

「す、すみません。待たせてしまって」

「といって、10分くらいしか待っていないとかじゃないのかな? 内藤さん」

「ありゃ、邦ちゃんにはお見通しでしたか」

「内藤さん、元刑事なのに待つのが苦手らしいよ」


 笑いながらマスター言うと、内藤さんは否定することもなく明るい口調で話し始めた。


「信じられないかもしれないけど、本当のこと。張り込みなんぞ苦行みたいなもんだった。待つのは苦手なままだけど、張り込みは今では大得意。最初は張り込みに内藤を出すなって言われた時期もあったけど、後輩がどんどん入ってきたら示しがつかないから自分から『やります!』て手をあげてね。苦行を積極的にやってたらいつの間にかその分野での仙人になった」


 元気な声で内藤さんは自分の弱点を披露している。その姿から、仕事が舞い込んで活気に満ちているのが伝わってきた。


「それで、今日はどうして新宿御苑に集まることになったんですか?」


 藍が本題を切り出すと、内藤さんは咳払いを一つしてから口を開いた。


「先日お嬢ちゃんにメッセージを送った通り、変な事件があの近辺で起きている。まだ怪しい人物も浮かび上がってこない。そっちの話もしたいんだけど、それとは別に、例の事件で確認したいことがあってね」

「確認したいことですか? 確かに、犯人であるスリのイサムを現行犯逮捕する際に警察から事情聴取とか受けませんでしたので、そのことですか?」

「あれは本当の意味でのスリの現行犯逮捕ではないから。おとり捜査で事前に警察の方に『こんなことするから様子見てくんないか』って。お嬢ちゃんから提供してもらって、ばあ様が作ったマスコットは『本当に所持していたもの』ではないから。でも、裁判するにあたりお嬢ちゃんは表向き『被害者』になる」

「つまり、手続き的には被害届を書いてもらわないと困る、ということかな」

「俺が言いたかったことを先に言うなよ、邦ちゃん!」


 後日、盗み被害に遭ったことに気がついた場合は警察に届け出が必要だが現行犯だと被害届は後日提出という形になる。


「あの時、すぐに届け出を書いてもらえば良かったんだが『イサム』という思わぬ大物で興奮しちまったから。あと、お嬢ちゃん達も学校のテストがあって邪魔しちゃ悪いと思ったし、それに地元で変な事件は発生するし。要は俺がうっかり忘れていたわけだ」

「被害者は私ですから、届け出に書いて所轄の警察署に提出すればいいんですね?」

「そういうこと。俺も一緒に行くけど、その前に盗られた場所とか時間の確認をしたい」

 

 事件現場でもある中の池の周辺を三人で歩いて行くと、やはりマスターの方をチラチラみるご婦人が目立つ。内藤さんはその様子に全く気がついていないようで、藍は彼の鈍感さにひと安心した。


 マスターの方は女性からの熱い視線を気にもせずにいる。女性に媚びないところがまたモテ男の特徴の一つだと藍は妙に納得した。


 現場検証をしていると、マスターが内藤さんを心配するように話しだした。


「ところで警察の人から、つまり後輩たちから怒られなかったんですか? 『内藤さん、ちゃんとしてくださいよ』って」

「普通なら怒られるな。それこそ探偵業廃業だ。でもよ、スリのイサムを捕まえたし、背後に大掛かりな組織があるかもしれないから今回は御咎めなしで済んだ」

「バックに大きな組織があると、内藤さんも身辺気をつけた方が良いかもしれないぞ。逆恨みとかされたら厄介だ……」


 和やかなムードが一変し、内藤さんもマスターも険しい表情になった。


 それを見た藍は、内心『とんでもない世界』に足を踏み入れてしまったのではないかと一抹の不安を感じた。

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