第21話 恋路にライバルはつきものだけれど
「どうしてこんなにパウンドケーキを作らないといけないんだよ!?」
事件解決の祝賀会があった日曜日の夜のこと。
姿を現したクラウド一世をそばに従え、アキラにパウンドケーキ増産の話を持ち掛けた際、弟から疑問の声が上がった時に言われた言葉を突然思い出した藍は、苦笑いを浮かべつつ日比谷から秋葉原へと向かう電車に揺られながら最近の出来事を振り返ってみた。
あの日の夜、千駄ヶ谷でのことをもう隠し通せないと覚悟を決め、アキラに事件のことは隠しつつ将棋会館に行った日にたまたま入った喫茶店やそこで出会った人たち、そして美帆も連れて行った話をした。
ただ、どうしても新宿御苑で亀井先生に会ったことだけは口に出来なかった。
「よっしゃー! 俺のパウンドケーキの味が認められたのか」
アキラの反応は藍の予想とは異なり無邪気に大喜びするものだった。
「あのさ、違うから。『私達のパウンドケーキ』ね。私とアキラの共同ですから」
「アイデアは俺。最終配合も俺が決めているから」
「言いだしっぺはアキラ。最終的な配合もアキラかもしれないけど、私もアドバイスしている。そして作っている。だから、作っているのは二人。OK?」
「うるさいな、分かったよ」
「それでね、一本六百円。飲食店には千円で卸す、ということになっているから、こちらの儲けは四百円で仲介料として百円取る。そちら側には三百円でどう?、と」
「マジでさ、その飲食店は本当に千円で買ってくれるか?」
「私も心配したけど、先方はそれで良いんだって。だってさ、デパートで売られているのすごい値段じゃない!」
「たしかにな。ふんだんにフルーツを使ったって銘打っていても、山際家の方が贅沢で値段もお手頃だしな」
マスターが決めた価格設定に驚きながらも納得し、山際姉弟にとって初めてのビジネス取引にもなった。
急にパウンドケーキを大量に作り始めたら親だって怪しむ。そう考えた二人は、その日の夜に正座をして事の次第を説明した。
『そんなことをするより勉強しなさい!』と叱られると思っていたが、子ども達に対し、聖四朗と良子はすんなりと新しい商売を認めてくれた。
「千駄ヶ谷の喫茶店に売った利益は、ちゃんと日曜日の売り上げとして計上しておく。藍が行商人の役割を果たしているみたなものだ」
「野菜売りの行商人なんて、昔は東京のあちこちで見られたのにね」
「もしかしたら、万が一でも亀井さんが口にしてくれたら……。どうする、藍?」
「そしたらあなた、大々的にお店で宣伝するしかないでしょう。『あの天才イケメン棋士 亀井晴也も食べたパウンドケーキ』ってね」
あれから十日が経つ。
毎日二本から三本作り、商品でもある『レモンのパウンドケーキ十本』を昨日、納品してきたばかりだ。
藍はテスト期間中ということもあり午後5時半まで『二歩』で勉強してきた。
店に入るとすぐに約束のパウンドケーキを渡すと、マスターは代金が入っている白い封筒を藍に渡した。
「ありがとう。早く欲しいってねだられてね。これで先方に渡せるよ。それと、ちょっとしたアルバイト代も入っているから。これで参考書とかでも買ってね」
「いや、まだ私はちゃんとアルバイトらしいことしていませんし……」
「いいから、いいから」
会話に割り込む内藤さんの声がするかと思いきや、そこに内藤さんの姿はなかった。
木原さんは用事があるのか現れないことはあるが、『二歩』に行けば必ず内藤さんがいるものだと思っていた藍にとって驚き以外の何ものでもなかった
キョトンとして内藤さんの定位置のテーブルを見つめる藍に気がつくとマスターがいない理由を教えてくれた。
「どうもね、今日は探偵の仕事が舞い込んだみたい」
「なるほど。猫探しですか?」」
「えっ?」
「この前、おとり捜査で新宿御苑に行く時に『猫や犬、インコ探し』が舞い込むと話していたものですから」
「あぁ、そうなんだ。今回はね、小動物系みたいだよ。トカゲかな、たしか」
「トカゲですか……」
テスト勉強をしている藍に気を使って必要以上に語ろうとしていないのか、それとも内藤さんの仕事を必要以上に話したくないのかその会話が終えるとマスターを俯きながらガラスのコップを乾いた布で丁寧に拭いていた。
そのまま、昨日の午後五時半まで『二歩』を訪れる客はいなかった。内心、経営状態を心配してしまったがマスターはいつものようにどこ吹く風といった感じで新聞を読んだり本を読んで過ごしていた。
太陽が傾き、藍が帰宅の準備をし始めると、マスターが思い出すように声をかけてきた。
「私の勝手な推理だけれど、ユミちゃんのマスコットを夕方盗ったのも自分たちの姿を見られないためだったけど、『風のイサム』の腕が凄くて、それに油断して昼間から実行したのかもしれないね」
「たしかにそうですね、夕方だったのに時間帯変えてきたんですものね」
「ユミちゃんの件からしばらく新宿御苑ではスリ被害はなかったみたいだよ。昨日、内藤さんが言っていた。この辺りの女子高生の間でひそかに『あそこに行くと大切なマスコットやぬいぐるみがなくなる』って話題になって近づかなかったようだからね」
盗ろうと思ってもターゲットが来ない。そんな中、限定品らしきクマのぬいぐるみをぶら下げた女子高校生二人がふらりとやって来た。
伝説のスリ師の腕がなり、見事盗ったものの待ち構えていた警察に御用になったことを思うと、単に運が良かったのかと藍は思ったが、やはり付き合いの長い内藤さんが裏で働いたのではないかという気もしてきた。
(ユミさんを使って『新宿御苑に行かないで』と広める。そこでおとり捜査官の私たちがいて、確実に相手が動くようにする……。もしかして、内藤さんは思っていた以上に切れ者?)
しかし、その考えもマスターの言葉ですぐに打ち消されることになった。
「ユミちゃん、相当怒っていたみたいだからね。知り合い全員『新宿御苑に行くと自分の大切なものなくなる!』とメッセージ送ったと口にしていたから。内藤さん」
「あぁ、そうなんですね……。偶然が重なった結果だったんですか」
「そういうことになるかな」
マスターの必殺技であるウィンクを見て、藍は少しドキリとした。何回か見てきているが、やはり藍でさえもほんの少し大人の男の色気を感じ取ってしまう。
(マスターって本当に何歳なのかしら? 年が近そうな内藤さんや氏家のおじいさんがやったら、どうなんだろう……)
二人の顔を想像してみたが、ただただ吹き出しそうになるだけだった。
「そ、それでは、また何かありましたら連絡してください!」
そう言いながら藍は静かに『二歩』を後にし、キョロキョロしながら千駄ヶ谷駅へと向かったが亀井先生との再会は叶わなかった。
消化不良気味だった昨日とは裏腹に、今回の定期テストの手ごたえを感じた藍は本気で本郷への道が少し作られてきた気がした。
(さてと、今日は亀井先生が挑戦者争いをしているタイトルの予選があるから……)
スマートフォンで将棋情報を検索すると、すぐに亀井先生の対局姿が出てきた。にやける気持ちをグッと堪え、文面を読んでいくと今日食べた昼食の情報が掲載されていた。
(えっと、先生お気に入りのお店……。いや違う。どこだろう『みのや』って?)
『亀井晴也四冠が驚きの新手をみせた。普段は洋食系の多い亀井四冠が今月から将棋めしを提供する和風定食屋みのや……』
(あぁ、そうか。半年前に老舗のお店が畳んでその代わりね。えっと『チキンカツの生姜添えセット』か)
画像を見ると、白ごはんに美味しそうなチキンカツと生姜醤油のたれ、副菜などが映っている。しかし、頼んだ料理の品名に妙な文言が記されていることに気がついた。
『パウンドケーキ付』
(パウンドケーキ? パウンドケーキ……。パウンドケーキ……!)
藍は慌てて無料動画配信アプリを起動し、中継中の将棋サイトの巻き戻し機能を使った。今日の対局は解説付きで、もしかしたら料理について触れられているかもしれないと思ったのだ。
(落ち着くのよ。いい、落ち着くのよ……)
お昼の注文情報が紹介されている場面を探し、唾を飲み込みイヤホンから流れる棋士と女流棋士の音声に神経を集中させた。
「珍しいですね、ここ半年はメニューをほとんど変えてこなかった亀井先生が新手を披露しました」
「いや、これはファンの方も驚くのではないでしょうか」
「今月から新しく将棋めしのお店として加わった『みのや』の一品ですか。あと、パウンドケーキもつけていると。レモンのパウンドケーキですか。タイトル戦さながら、おやつを準備しているんですね。さすがの準備力」
「まぁ、昼食ですのでおやつタイムには早いですが」
「こちらがパウンドケーキの写真になりますね。真似する先生、増えるのではないでしょうか?」
映し出された写真を見て、スマートフォンを持つ手が震えるのを抑えるのに精いっぱいになった。どう見ても、それは藍とアキラが作ったレモンのパウンドケーキそのものだったのだ。
(わ、私が作ったパウンドケーキを、あのパウンドケーキを亀井先生が……)
嬉しさのあまりその場で泣き出しそうになったが、混み合っている電車ということもありなんとか持ちこたえた。
しかし、その嬉しさも一つのコメントによって打ち崩された。
『これ、姉弟子の奈緒さんが昨日の対局で頼んでいたのと同じ』
(……どういうこと?)
スマートフォンで『女流棋士 滝川奈緒 みのや』と検索してみると、コメントの通り昨日行われていた女流棋士のタイトル戦予選で『チキンカツの生姜添えセット』『パウンドケーキ付』を注文していることが有料のライブ中継アプリで紹介されていたようだ。
(滝川奈緒先生か……)
今、将棋界は亀井晴也四冠だけではなく美貌の女流棋士の存在も将棋ブームを牽引していた。その代表格なのが亀井先生の姉弟子である滝川奈緒女流二冠だった。
美しい黒髪に女優かモデルかというルックスに有名私立大学出身という高学歴。奨励会在籍経験があるという確かな棋力。亀井先生同様、『天は二物以上を与えている』の典型的なタイプの女性だ。
『奈緒先生から聞いて、翌日に自分の対局で寄せてきて仲良しの匂わせか?』
何気なく目に入ったSNSの投稿に、数分前まで有頂天にいた藍は奈落の底に突き落とされた気分になった。
心臓にいくつものナイフが突き刺さるような感覚を覚え、思わず電車の手すりをギュッと掴んだ。
そんな藍の心を知らないアキラから陽気なメッセージが届いた。
『氏家のじいちゃんから聞いたけど、亀井さんがパウンドケーキを頼んだってな! これは大変なことだし、姉ちゃん嬉しくて家の廊下の底が抜けるくらい嬉しくて飛び跳ねちまうんじゃないかって心配だよ!』
(そうね。五分前ならそんな心境だったけどね……)
藍を乗せた黄色い中央線は秋葉原駅が近づき、減速し始めた。まるで自分の気持ちと同じようにこれまでフルアクセルだった恋のスピードに急ブレーキがかかるような、そんな瞬間だった。
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