第12話 アリグモに導かれた出会いは突然に

「だ・か・ら、これから千駄ヶ谷に行くの!」


 学校の門を出てスマートフォンをチェツクすると、美帆から『いつものファミレスで特別講師お願い!』というメッセージが届いているのに気がついた藍はすぐに連絡をした。もちろん、断りの電話だ。


「ぬいぐるみの布を渡して、今後の対策を練ることになっているから」

「作戦会議なら仕方がないな。それじゃ明日でいいよ。それで許す!」

「意味わかんないんだけど、許すとか。とりあえず美帆、明日ね」


 普段以上に強い口調で言ったことと、やはり藍にとって特別な町である千駄ヶ谷に行くことで何かを感じたのか、美帆はあっさり引き下がった。

 

「了解! あと、土産話を期待しているからね!」


 親友以上に何かドラマチックな展開があることを期待している様子に、藍は釘を刺した。


「多分、味噌ラーメンが美味しかった、くらいしか話すことないと思う」

「分かんないよ~。不意打ちでトンデモナイ出会いがあるかもしれないし」


 美帆の軽い口調に呆れた藍は、『まぁ、そんな簡単に会えないから』『あっさり会えるような方ではありません』と付け加えて会話を切り上げた。


 とにかく時間がない。藍は急いで家の方向とは真逆の電車に乗り込み千駄ヶ谷方面へと向かった。


 新宿御苑の中を突き抜けて行くコースということもあり、千駄ヶ谷界隈に辿り着くが前回とは違い、当の本人が驚くくらい気楽な気持ちだった。


 そして今回、背負っている通学用のリュックサックの中には蜘蛛を捕まえる用のフィルムケースも入れている。


 今では使う機会が激減し、藍自身も本物のカメラフィルムを手にしたことはないが、ケースは蜘蛛採集に必須のアイテムだ。


 今日の再訪は、探偵見習いで気持ちが高揚しているよりは、蜘蛛採取の方の楽しみが強く、余裕があれば、珍しい蜘蛛を見つけてサッと捕まえて北千住に連れて帰ろうと考えていた。


 昭和初期の古めかしい守衛が目印の『大木戸門』の発券所で学生証を見せ、高校生料金を支払い、千駄ヶ谷門に向かって歩き出した。


 門をくぐってすぐに右側のガラス張りの建物が見えてきた。温室には熱帯や亜熱帯の植物が栽培展示されているとネットに書かれていた。


 新宿御苑に向かう電車の中でSNSで投稿されている写真を見た藍は、温室育ちの蜘蛛に会えるのではないかと想像し、顔がにやけてしまった。そんな彼女を周囲の乗客が怪訝そうに見ていることに気がつき、気まずい雰囲気になった先ほどの出来事を思い出した。


(行きたいけど、時間がないな……。仕方ない、次回の楽しみにしよう!)


 温室沿いの道は桜並木になっているが、今は完全に葉桜。平日で閉館まで一時間ちょっとということもあり散策する人の姿はまばらだ。


(マユさんの事件が起きたのは平日で午後四時頃から閉園までの限られた時間で起きた……)


 人がいないということは目撃情報も少ないし友達とワイワイ盛り上がっていたら近づく不審者に気が付かない。複数人のグループで連携していたら短時間でも実行できそうだと藍は感じた。


「それに天気や太陽の傾きが大切。顔を見られないようにするには、どの時間帯が好都合?」


 藍は呟きながら季節や天気、時間によって変化する『顔が見えにくい条件』を考えてみた。そうこうしているうちに、温室の道沿いに『日本庭園』『千駄ヶ谷門』の木の道しるべが立つ分岐点までたどり着いた。


 新宿御苑は広大だ。地図を片手に歩いていても行きたい道に進むとも限らない。


 ゆっくりと散策するには問題はないが、とにかく分かれ道が多い。『千駄ヶ谷門』まで行くと目的地がはっきりしている人間にとって、ただ迷わせるだけだった。


 緑の葉がゆらゆら揺れる桜並木を黙々と進んでいくと「新宿のエンパイアステートビル」の姿が現れた。つまり、『中の池』つまり千駄ヶ谷門に近づいている証拠だ。


 少し気が緩んだ藍は芝生と道の境目に生えているリュウノヒゲの茂みの前でしゃがみ込んだ。リュックサックからフィルムケースを取り出して蜘蛛が隠れていないかガサガサと探し始めた。


「ちょっと、メガネが邪魔だから外してと……」


 美少女ぶりを隠すためにかけている伊達メガネは蜘蛛探しの時には邪魔になる。周りに誰もいないことを良いことに、制服の上着のポケットにメガネを入れ草むらをかき分けて潜んでいる蜘蛛を探してみた。


「ラッキー! アリグモだ!」


 藍の目の前に現れたのはアリそっくりなアリグモのメスだった。


「いつ以来かな。小学生の頃だったかな?」


 このチャンスを逃すまいと彼女は急いでスマートフォンを取り出し、アリグモを手に乗せて写真や動画を夢中になって撮っていた。 


「それは……。アリグモですか?」

「え、はい、これはメスのアリ……」


 ふいに背後から少し甲高い声の男性から声をかけられた。誰かが近づく気配は全くなく、まさに不意打ち状態だった。


 少々めんどくさそうに後ろを振り向くと、そこには彼女が何度も声を聞いているよく知っている人物が立っていた。


 若いのに落ち着いた雰囲気。よく似合う濃紺のスーツ。手入れの行き届いた黒い革靴。銀色の細い縁のメガネが憎たらしいほどよく似合う凛とした眼差し。スッとした色白イケメン。 


「ここには、たくさんのクモが潜んでいますからね」

「……」

「すみません、観察中にお邪魔して。アリグモを見たのは久しぶりだったものですから」

「……」


 申し訳なさそうにその男性は会釈し、颯爽と大木土門方面へ去って行った。その後ろ姿を藍は腰を抜かして見送るしかなかった。


 あれほど恋焦がれてきた亀井晴也が突然目の前に現れたからだ、仕方がない。


「う、う、うそでしょう!」


 タイトルを複数持っていると自ずと将棋会館で行われる各タイトルの予選に出ないで済む。しかし、名人や竜王といったビックタイトル保持者は初段や二段となったアマチュアが申請する公式免状を将棋会館で署名を書くのも大切な仕事の一つなのだ。


 現在、彼はその資格のある『竜王』だ。千駄ヶ谷界隈を平日歩いていても不思議ではない。


 それなのに、まさかのシチュエーションでのご対面。蜘蛛と遊んでいる場面に遭遇するとは痛恨の極みとばかりに顔面蒼白になり、憧れの人が去っていくのをただ黙って見るしかなかった。


「あれ、まてよ。先生、蜘蛛に詳しい?」


 気が動転した中でも、彼女は亀井晴也四冠がもしかしたら『蜘蛛好きな仲間』の可能性を感じ取った。第一、アリグモはアリそっくりで昆虫や蜘蛛に関心がなければ瞬時に見分けるのは難しい。


「ま、まさかの蜘蛛好き?」


 せっかくの大チャンスをふいにし、何も言えなかった自分を恥じるより前に『憧れの人が蜘蛛好きかもしれない』という事実に藍は興奮した。


 しかし、冷静になって考えてみると彼の母親は生物学者だ。昆虫の書籍が本棚にズラリと並んだ環境で育っている可能性が高い。『一般常識』として蜘蛛に詳しいだけかもしれないと彼女は深く考え込んだ。


 そんな彼女のシンキングタイムを邪魔するように、スマートフォンが振動した。慌ててみると首を長くして待ちわびている内藤さんからのメッセージが届いた。


『マスター、味噌ラーメンの準備万端だよ』


 内藤さんのメッセージで藍はようやく現実世界に戻った。


(そうだ、『二歩』に行かないと!)


 アリグモをそっと元の場所に戻し、伊達メガネをかけた藍は亀井四冠が歩いて行った方向を見た。颯爽と現れ、風のように去って行ったのが本当に本人なのか信じられない気持ちでいっぱいだった。


 夢心地のまま再び千駄ヶ谷門へと向かう道中、交わしたともいえない彼との会話を何度も何度も頭の中でリプレイさせていると、あることに気がついた。 


(もしかしたら、新宿御苑が開園している時間は千駄ヶ谷駅に直行ではなくここを通り抜けている?)


 アリグモを獲得することは叶わなかったが、凄いことに気がついたかもしれないと、藍は小さくガッツポーズをした。

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