第11話 明日は続くよどこまでも
部屋に転がり込むと、藍は机の上の扇子をゆっくり開けて無傷かどうかを確認する。しかし、手が震えて思うように開けない。
(どうか、どうか、お願いだから大切な扇子が破損していませんように……)
深呼吸をし、祈るような思いでそっとゆっくり開けていくと、亀井晴也四冠の癖のある『刻石流水』は無傷のまま壊れている箇所はなかった。
「あ~、良かった。心臓止まるかと思った。窓を全開にしたから飛ばされたのね」
窓を少しずつ開け、窓枠にクラウド二世がちょこんと座っていた。クラウド二世ことハンゲツオスナキグモのオスはいつも夕方になると不思議なことに窓際の隙間に潜り込んでくる。
普通、塀の下の方や公園の岩と岩の間に網を作って巣を作るが、どういうわけか藍の部屋にボディーガードと言わんばかりに窓側で夜を越す習性があるようだ。
そんな『彼』に情が移らないわけがない。藍は慣れた手つきで彼を捕まえ、水吹きで保湿たっぷりにした状態の昆虫採集のケースこと『仮の家』に入れ、扇子と並べた。
「扇子と一緒に写真を撮るからね。ハイ、ポーズ」
スマートフォンで確認するも彼女は納得できなかった。クラウド一世がいない分、スペースが空いて物足りなさを感じてしまうのだ。
「まったく、一世はどこにいるのかしら。お父さんが見たのが本物だったら冬を越えていたことになるし、そうだったら本当にうれしいけれど……」
店先で潜伏している線が一番濃厚だが、ちょっとマイペースな性格。お客さんに踏まれていないかどうか心配でならなかった。
「よし、ここは景気のいい話に切り替えて、ゲットした端切れの写真を送って確認してもらおう!」
大きく手を叩き、独り言にしては大きな声で暗い気持ちを振り払うようにスマートフォンを取り出した。
予想以上に楽々と手に入れた端切れをスマートフォンで撮影。内藤さんとマスターに送信。それから三十秒後、通知音が鳴った。
どうやら二人とも暇なようで、藍は驚くしかなった。
「早すぎ! うわぁ、内藤さんまたお店にいるんだ~。どれだけ『二歩』が好きなんだろう」
『さっそくありがとうね。明日か明後日、邦ちゃんの店まで来てね』
『そんな簡単に手に入るとは。さすが古い街ですね。明日か明後日、味噌ラーメンを準備するので予定の良い日にちや時間を教えて下さい。内藤さんと待っています』
どうやら端切れに関して文句はないようだ。
『生地の質は良いので、明日お店に持ってみてください。午後4時到着を目指します』
『そうそう、部活は大丈夫? マユはいつも帰りが遅い』
『忙しくなるのは文化祭前なので、全然余裕です』
『お琴の先生のところは大丈夫のなのかい?』
『高校生になったのでお稽古は月に二回程度で、後は自主練です』
『了解!』
二人とのやり取りをし、ぬいぐるみを作る布は問題なくクリアした藍は二世を仮の家から取り出し、定位置である窓枠の隅っこに置いてあげた。
「二世、お利口さんしているんだよ」
室内で育てるとなると専用の箱が必要になり、さらにエサも準備しないといけない。蜘蛛は肉食かつ生きている虫が大好物だ.。専門店で売っているが、さすがに生きている餌用の虫を自前で集めて保管するのも難しい。
そもそも、青果店を営んでいる家で万が一でも餌用の虫が脱走したら商品を食べられてり、店頭に出てきて大騒ぎを引き起こしてしまう。さすがにこればかりは寛大な両親からも理解が得られず、藍はかれこれ十年以上もの間、蜘蛛を屋外で放し飼いをずっと続けていた。
クラウド二世とサヨナラした後、リュックサックから慎重にお弁当袋を取り出した。
袋の色は亀井晴也四冠が初めてタイトルを獲得した時に着ていた羽織によく似た浅緑だ。
それまでの将棋界ではタイトル戦に出る棋士が着たことのないような色味で話題を呼び、メディアで騒がれた。自ずと亀井晴也の画像が取り上げらえるため、『あのイケメンは誰?』と女性ファンを増やすきっかけにもなった。
藍は亀井晴也の化身とも言えるべきそのお弁当袋を決して汚すことのないよう、大切に使っている。
「さてと、お弁当を洗った次に八合のご飯を洗って予約する。ところで今日のご飯、何だろう?」
ご飯のことを考えたら途端にお腹が鳴り始めた。夕飯になる前に多少なりとも何か入れておかないとお米を洗うことも出来ないと勝手な解釈をした藍はお弁当袋を両手で書けながら階段を下りて台所へと向かった。
「ただいま!」
丁度その時、相変わらず元気いっぱいのアキラが帰ってきた。
「おかえり。あれ、今日はいつもより早いんだね。どうしたの?」
「明後日、修学旅行だから『荷造りしろって』先生がうるさくてさ。で、早く帰ってきた」
卓球部の副部長でもあるアキラは、中学生最後の大会が近づいていることもあり明らかに不満げだった。
「荷造りか……。私の時に体操着入れ忘れた男子とか多発したから、それが影響しているね」
「姉ちゃんたち世代のせいだよ」
「それだけで済んだんだからいいじゃない。宿泊先で問題起こしたら修学旅行なんてしばらく中止だよ」
『それもそうだね』と言いう代わりに、アキラは肩をすくめるとカバンを置くとすぐに店へ出ようとした。
「ちょ、ちょっと待って!」
「なに?」
店へと急ぐアキラを呼び止めると
「この前、焼いたクッキーとかまだ残っている?」
「そこの戸棚にあるよ。家用にとってあるパウンドケーキが二本か三本。クッキーは缶の中に袋ごと突っ込んである」
「分かった。で、大切な荷造りは?」
「平気平気。ジャージと下着とお金を忘れなければ何とかなるから」
(全く、しょうがないんだから・・・・・・)
弟に呆れながらも空腹に負けそうな藍は昭和の空気感が漂う戸棚を開け、パウンドケーキに手を伸ばそうとした瞬間、あることを思いついた。
(明日、『二歩』に行ったときに内藤さんやマスターにプレゼントしよう! 味噌ラーメンのお礼として。お礼なら、内藤さんには必要ないか?)
とはいえ、内藤さんの目の前でマスターにだけ渡すのは気まずい。
「それなら、ぬいぐるみを作ってくれる奥さんへのプレゼントとして渡そう!」
残る一本を食べようかと手を伸ばしたが、またあることに気がついた。
(う~ん、木原さんが来ていたら目の前で二人に渡すのも気が引けるな)
とりあえず、藍は缶を取りイチゴの風味がたっぷりつまったクッキーを5枚食べて空腹を紛らわした。
そして、家用のパウンドケーキは三本とも明日千駄ヶ谷へ持参していこう。適当に学校の友だちにあげるとでも言えば済む話だ、と暢気に考えていた。
モグモグとクッキーを食べていると外から威勢のいいアキラの声が聞こえてくる。外から聞こえてくる賑やかな音をBGMに藍はお弁当を洗い、お米を洗った。
山際家のお米は田舎のおばあちゃんが定期的に送ってくる玄米を、食べる分を毎朝家庭用の精米機にかけている。お米は生鮮食品と同じで精米したら鮮度が落ちる。
面倒だが精米にかけて食べた方が格段に味が美味しくなる。美帆が家に遊びに来ると、小さい頃から必ず銀むすびを『食べたい!』とストレートにせがんでくるのもそういう理由があった。
「トウモロコシ完売! また明日お待ちください」
(えぇ? 嘘でしょう!)
アキラが言った言葉を耳にし、藍は思わずお米を流してしまいそうになった。今日一日で全て売ることは不可能だと思っていた五箱分のトウモロコシが見事に完売したようだった。
居間と店を仕切る暖簾からそっと覗くと、トウモロコシの空箱をアキラが畳んでいた。彼の次のターゲットがどの野菜なのか気になった藍は炊飯器の予約ボタンを押し、店先に出た。
「すごいね! よく全部売れたね」
「今日は天気がいいし、客足が落ちないだろうから、こっちが声を出せばくるよ。その辺のスーパーは、まだトウモロコシを大々的に扱っているところはないしね」
商売の神様の化身なのかというくらいアキラのお客さんへの声がけのタイミングは完璧だ。白い歯を見せてニコニコ笑い、声をかけてくれる中学生の坊やを嫌になるお客さんはいないだろう。
「なるほどね。そんなことまで読んでいるんだ」
「老舗青果店の跡継ぎは今から家業を継ぐため、現場で日々勉強しているんだぜ」
アキラはわざとらしく白い歯を見せると、次の瞬間から今日の特売品をそらんじながら店の片付け作業を始めた。
「藍、ご飯やってくれた?」
「もちろん。何か他にやることある?」
「アキラと一緒に片付けお願い。夕飯の準備してくるから」
「今日のご飯は何?」
「筍と豚肉の炒め物」
良子の『筍と豚肉の炒め物』と聞いたお客さんがざわざわ言い出した。
「女将さん、どうやって作るの?」
「美味しそうね! レシピを教えてよ!」
「皆さんごめんなさい。とりあえずアキラと藍に聞いて下さい」
二人に無茶振りして当の本人は暖簾の奥へさっと消えた。八百屋の姉弟はジリジリと近寄ってくる奥様方を相手に山際家のレシピを説明せざるを得ない状況に追い込まれた。
「肉は家にあるもので大丈夫です。ハムでも、ベーコンでもお好みのものでOK」
藍は奥様方の圧力を感じながら、家にある材料で作れることをアピールした。
「今晩サッと作りたいなら、やまぎわ特製の『アク抜き済みの茹で筍』がおすすめ。明日でいいや、というお客さんはこちらの孟宗竹。アク抜き用の米ぬかも無料でついていますよ!」
毎年筍が店頭に並ぶ時期には、筍を購入したお客さんに家庭用精米機で精米で出る米ぬかをサービス品として渡している。
高々と筍と米ぬかの入った袋を見せると、お客さんは『茹でた筍』と『米ぬか付きの孟宗竹』の二手に分かれ、商品を手に取り黄色いカゴに入れていく。
「筍の旬はもう少しで終わり。ここを逃すとね、来年の春まで店頭に並ばないよ」
アキラに負けじと聖四朗も声を張り上げる。藍は黙々と空っぽになった棚や箱を片付けて『どんどん商品が売れていきますよ』という雰囲気を作る。
「閉店まで三十分! 買い忘れた野菜や果物はありませんか」
閉店時間は午後六時半。先代の時代より一時間遅くなったとはいえ、現代の感覚からすれば早い方だ。会社帰りの人々が店にやってきては店頭に置いてある時短レシピを手に取り野菜を買っていく。
「今日もありがとうございます!」
商店街に立ち並ぶチェーン店はギラギラと明るい照明をつけている中、『やまぎわ青果店』の忙しい毎日は今日も終わっていった。
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