第10話 愛しのクラウドはいずこ
藍は端切れを大切にしまい、老夫婦に軽く会釈をして書店を出て、三十歩で着く我が家へと向かった。
(イケメンの将棋指しって昔からいたんだ。あっ、でも氏家のおじいちゃんの言う『アイツ』はアマチュアの人か……)
将棋のことを考えつつも、店主の『少しでも足しに』と口にした書店の将来を心配した。
『氏家書店』はこの商店街では最古参の部類に入る歴史ある書店だ。
明治時代に入り尋常小学校が誕生して教科書を扱う店が必要になり、それまでやっていた竹細工といった日曜雑貨品の商いと並行して教科書や本を揃えていた。本の売り上げが上回るようになったら本屋を本業にしたという。
『創業は江戸。幕末の動乱も大震災も戦乱もくぐり抜けたのが氏家書店』というのが氏家のおじいちゃんの口癖だった。
(うちは焼き菓子とかフルーツジュースがヒットしたけど、本屋さんで客集めっるとなると何が一番いいかな。おじいちゃんがやっている紙芝居じゃ、客層子どもだしお金を落とさないし……)
色々考えている間に『やまぎわ青果店』の前に着いていた。
いつものように良子が常連客と立ち話をし、聖四朗はレジ打ちをしている。
「おかえりなさい藍ちゃん。本当にね、うちの孫も藍ちゃんみたいに賢い子だったらよかったんだけど」
「何言っているのよ! お孫さん、甲子園常連校のレギュラーでしょう。そんな簡単になれるもんじゃないですよ!」
「怪我したらおしまいでしょう!藍ちゃんみたいに頭脳があれば食いはぐれないから羨ましいわ」
店先ではいつものような会話が繰り広げられている。家族全員が最初はウンザリしていたがもう慣れっこになり華麗にスルーする技も覚えた。
最難関都立高校に受かったことで、「やまぎわの野菜を食べたら子どもが賢くなる」という噂がこの界隈で席巻した時期があった。
近隣でも商人の子が大学進学が当たり前という高校に進学するケースはあまりなく、両親も最初は戸惑っていたが藍の決意は固かった。
全て亀井晴也四冠の影響。本郷への道に近づけるルートを考えた際、現在通っている都立高校が最適だったからだ。
もしかしたら道端で先生に出会えるかもしれない。そんな淡い気持ちを抱きながら、全身全霊で勉強し合格を掴み取った。
しかし、同じ東京に住んでいても、ファンになって二年経つというのに未だお姿を直接見たことがなかった。
都内のイベントに行こうとしても文化祭と重なっていたり、人数制限の前に抽選で外れるなど全く縁がない。先日、ついに意を決して千駄ヶ谷の地に足を踏み入れても色々あってアクリルスタンドを手に入れることも叶わなかった。
(どこかでお祓いでもしてもらった方がいいのかな・・・)
店先で突っ立っている藍に良子が見かねて声をかけた。
「氏家さんとこ、寄ってきたの?」
「あ、そうそう。えっとさ、何か手伝うことある。というか、今日は段ボールの片づけくらいかな……」
段ボールと口にしてから、藍はクラウド一世のことを思い出して慌てて聖四朗に近づき小声で確認した。
「ねぇ、クラウド一世はいた? 踏んだりしていない?」
「ハエトリは見てないな。ただ大田から付いてきた蜘蛛はいたけど、商店街の方に歩いていったよ」
「大田!それじゃあ市場から来たニューフェイスね」
新たな蜘蛛の情報に彼女は興味津々で質問攻めを始めた。
「ど、どんな蜘蛛?」
「と、父さん、そこまで詳しくないからな……。まぁ、よく見るような蜘蛛だ」
「よく見るって、黒くて小さくてってこと?」
「そうだな。黒くて小さい蜘蛛」
「よく見る言ってもね、模様があったりして一つ一つ違うから」
藍の迫力に押され、聖四朗は頭をかいて苦笑いを浮かべた。
「そう言われてもな……」
「とにかく、店の外に出て言っちゃったのね。写真撮ってくれればよかったのに」
「九州産のトウモロコシの箱を運んでいた最中だから、そんなの無理だよ・・・」
彼ににとっては助けに船。さっきまで立ち話をしていた常連さんが買い物を終えてレジへと来たのだ。嬉々としてレジ打ちを始める姿に藍は内心面白くなかった。
「毎度あり!」
「トウモロコシとタケノコが並んでいるなんて、昔じゃ考えられなかったわね!」
「物流が進歩してね、九州のものと東北の旬のものが店頭に並ぶからね」
「うれしいけれど、季節感がね」
「それなら、今じゃサクランボやラフランスくらいだね。この果物は作られている地域が限定的だからどうしても旬が短い」
気になる女の子を口説くがごとく、お客さんに売り込む姿はまさに商売人の鏡といったところだった。
「あらやだ、そんなこと聞いたら買うしかないじゃない」
「もう少し先ですけど、その時はお待ちしていますよ!おっと、もう少しでスイカも並ぶから今年も楽しみにしていてくださいね」
(お父さん、ちゃっかり営業トークしているし……)
話し相手が仕事場へと戻ってしまった藍は、POP広告の文字を書き直ししている良子に小声で話かけた。
「ねぇ、クラウド一世、見かけた?」
「野菜とか品物を並べている時に気をつけながら探したけど、見当たらなかったね」
「父さんが新しい蜘蛛を大田から連れてきたみたいなんだけどさ・・・」
「あぁ、市場の箱についていたのね」
大量に置いてある九州産トウモロコシを指さし、良子がつぶやいた。
「えぇ~、九州からきたのかな?それならこのあたりではお目にかからない種類かもしれないじゃん!」
小声ながらも語尾を強める藍を前に、良子はあきれた様子で見る。
「まったくもう! あんたって子は。諦めなさい」
「……」
「うちと縁がなかったの。だからよそに行っただけ」
「いくらなんでも、そんな言い方ないでしょう」
「八百屋が野菜をほったらかしにし蜘蛛を追いかけまわしていたら、商売あがったりよ」
「そ、そうかもしれないけど……」
「それに父さんは結婚した時は蜘蛛なんて見ただけで大騒ぎした人が、今では娘のために直視できるまでになったんだから」
皮肉なことに藍の父親、聖四朗は田舎育ちなのに蜘蛛が大の苦手だった。つまり、その対極にいるのが藍だ。
「散歩しては蜘蛛を見せたり、腕に乗せたり好き勝手してきたものね」
「今思えば、父を思って幼子がショック療法をやってあげたわけよ」
父は農家の四男で後を継ぐ必要もない身。ジョロウグモや鬼グモのような大物が普通にいる田舎から高校卒業したらすぐに東京に脱出し、まめに市場で働いたおかげで知り合いからお見合い話を持ってきてもらった、という経緯があった。
『婿さんとして迎えられるお見合い話は最初から乗り気だった』という噂話はまんざら嘘ではないだろう、と藍はずっと思っている。
しかし、藍が小さい頃から蜘蛛観察をして、素手てハエグモを捕まえては見せて驚かすを繰り返してきた。荒療治になったのか、聖四朗は『蜘蛛を見ても騒がない』『蜘蛛を見れるようになった』『蜘蛛が近くにいても鳥肌が立たない』と次々と蜘蛛嫌いを克服した。
「八百屋やっているとね、蜘蛛とか出ることあるから。山際のおばあちゃんも言っていたでしょう。益虫の蜘蛛もいるから何でも殺すんじゃないって」
「……うん」
やまぎわ青果店の先代であり、藍の母方の祖父母は彼女が五歳の頃に交通事故に巻き込まれて突然亡くなってしまった。ちょうどアキラも三歳になり本格的に娘夫婦に仕事を任せ始めた矢先の時だった。
人物像としてはちょっと短気な祖父と、おっとりした祖母というぼんやりとした記憶が残っている。しかし、蜘蛛に関する会話だけは鮮明に覚えていた。
『ハエトリグモはよく見ると目が丸っこくて可愛いのよ』
『悪い虫を食べてくれるからハエトリグモを大切にして、良い子ね』
おそらく、藍が蜘蛛を愛でていることを肯定的に捉えての発言だと成長してから深く理解した。
「蜘蛛を大切にする家だから、お父さんも最初は苦労したんじゃないの?」
「まぁね。よくおじいちゃんに怒られていたから。私とおばあちゃんが間に入ってなだめてと。高校野球の監督と選手みたいな感じね」
「常に緊張感か・・・・・・。ストレスしかない」
「それがね、そうでもなかったの。ほら、父さんは四男坊だから実家じゃ最初から『出る人間』として扱われてきたでしょう……」
母親の真似をし、商品のPOP広告を改良しながら母娘で内緒話をするのも悪くないなと内心思った。
「叱咤も愛情、厳しいけれど目をかけてもらえるのは嬉しい、か」
「父親と上手くいかない息子なんてけっこういるから。お葬式の時なんか、私以上に大泣きして大変だったし……」
「それは覚えている。アキラも人生最古の記憶が『お父さんの大泣き』だから」
「あれはひどかったね。母さんドン引きして泣きたくても泣けなくなったから」
突然の別れで商店街や取引先の人がたくさん集まった通夜や葬式の席で、聖四朗はずっと泣き崩れてしまい、良子が喪主代わりとして務めていたのは商店街の一つの伝説として語り継がれている。
飲み仲間だった氏家のおじいちゃんもワンワン泣き、見かねた藍が『もう泣かないで』『うるさいからシッー』と声をかけると、不謹慎ながらも周りにいた大人がみんな笑い出したのもこの界隈では知られた話だ。
「そうだね。あれは子どもながらにどうかと思ったし」
「孫と一緒にいる時間は短かったけど、藍の記憶に残っているならいいかな」
いつも丸い顔でニコニコ笑顔がトレードマークの母親が、感傷的な雰囲気で話してきたので一瞬ドキリとした。
しかし、三秒後にはいつものように威勢のいい声を張り上げて今日の特売品を紹介し、お客さんの購買意欲を掻き立てた。
「新鮮なトウモロコシ入荷したよ! 茹でてもいいし、天ぷらにしても美味しいよ!」
「茹でてあるトウモロコシはレジ横にありますよ!」
声につられて買い物客が我先にトウモロコシを取っていく。まるでハーメルンの笛吹状態だが、それでも五箱分を完売するのは不可能に見えた。
「私、部屋で琴の練習したりするから。次に先生の所にいくまでに発表会で演奏する曲をみせることになっているから。怠けているとすぐバレるし」
夕刻が近くなり、お客さんの数が徐々に増えてた。このままいたら邪魔になるとそそくさとその場を立ち去ろうとした。
「その前に、お弁当を自分で洗っておきなさいね!」
「はいはい」
「あと、お米も洗っておいて。八合でいいかな」
「はいはい」
「そうそう、言い忘れてたけど千駄ヶ谷で買ってきた扇子が風に飛ばされて畳に落ちていたから拾っとておいたから……」
母親の言葉を最後まで聞かず、藍は慌てて店と住居を分ける五十センチの段差を乗り越えて自分の部屋へと階段を猛スピードで駆け上がっていった。
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