第5話 千駄ヶ谷の昼下がり

『二歩』を出てから数分もしないうちに今回の千駄ヶ谷散策のお目当ての一つ、鳩森神社に到着した。ここは多くの将棋ファンが立ち寄る聖地の一つであり、東京都内最古の富士塚のある神社でもある。


 毎日、家のパソコンで千駄ヶ谷界隈をオンライン歩きしている藍にとって、足を運んだことは無いのにすでに馴染みの神社になっていた。

 

 彼女はフラフラしながら鳥居をくぐり、目の前にそびえ立つ大イチョウの緑色の葉が風に揺られているのをぼんやりと眺めた。その後ろにいる狛犬がギロリと彼女をにらんでいるような気がして、いそいそと富士塚へと逃げるように向かった。


 『ミニ富士山』に登頂しつつ、癖になっている蜘蛛探しをしながら午前中から昼過ぎにかけて起きた出来事を振り返った。


 ほんの十分前の会話を思い出しながら、誰にも聞こえないような声でつぶやいた。


「探偵見習なんて、内藤さんは大袈裟な人なんだか」

  

 連絡先を交換し、店を出ようとした彼女に『今日からお嬢ちゃんは俺の弟子。そんで探偵見習だ』と声をかけてきたのだ。


 マスターも追い打ちをかけるように『筋がある』なんていうものだから大変。


 凸凹コンビとしてこの界隈の事件を解決させようなんて言い出し、お店のドアに『探偵ならこちら。事件解決します』と貼り紙を出すと張り切っていた。


 木原さんは相変わらず、奥のカウンタ席でまるで『お好きなように』といった様子で優雅にアイスティーを飲んでいた。


 謎めいた大学生の木原を思い出した藍は、心の中で毒づいた。


(関心のあるなしの振り幅が半端なさすぎでしょう、木原さん……)


「亀井先生のグッズを買いに千駄ヶ谷にきたのに、なんで探偵見習になったのか」

 

 将棋とは関係のないことに巻き込まれたことを考え、事の重要性をひしひしと感じた藍は『ミニ富士山登山』を無事に終えてからも心のモヤモヤが晴れない。草木の手入れが出来ていて、垣根には蜘蛛の巣が全く見当たら上に蜘蛛一つ見つけられなかった。


(まだ五月。蜘蛛のシーズンは始まったばかりだし)


 そんな彼女を尻目に将棋ファンと思われる女性が次々と神社にやって来る。


「ほら、あったよ!絵馬を購入して必勝祈願を書こうよ!」


 二十代半ばと思われるお洒落なワンピース姿の二人組の女性の楽し気な声に現実に戻った藍は、にぎやかな声のする札所にそっと近づいてみると、彼女たちは那須与一をデザインした『必勝祈願』と書かれている絵馬を購入していた。


「来月からタイトル防衛戦が始まるし、絶対に連勝で決めて欲しいよね」

「でも、フルセットまでもつれたらそれだけ晴君の着物姿を拝めるよ!」

「また可愛いおやつを頼むかな?」

「でも、アイスとかチーズケーキの線もあるよ」


 タイトル戦での大盤解説や、就任パーティーで女性ファンが殺到しているのはインターネットを通じて知っていた。観る将文化が浸透しているのを感じてはいたが、こうして目の前にお洒落な格好をしたお姉さんたちが現れると、藍は自分の服装がお子ちゃまで恥ずかしくなってきた。


(情けないけど自分は自分。お姉さんと同じく、先生を応援する気持ちは変わらない!)


 気を取り直して絵馬が掛けられている将棋堂に近寄った。


 毎年、仕事始めの日に役職に就いている棋士の先生や職員、タイトル保持者が一堂に会し『祈願祭』が行われる。観る将歴四年の藍は必ずSNSで情報を収集し、『その年最初の亀井先生の姿を見る儀式』として毎年楽しんでいた。


(私、先生と同じ場所に立っているんだ……)


 今年の祈願祭で彼がいた辺りを探し、藍は目を閉じて目の前に『亀井晴也四冠』がいることを想像した。


 目の前に現れたらどう話しかければいいのか。いや、そもそも声をかけることすらできないかも。いやいや、物陰に隠れてそっと見つめるしかできない。色々と考えたが、結局『まともに喋れない』という結論に達した。


 神聖な場所でもある将棋堂には『祈全冠制覇 亀井晴也先生』『防衛達成 亀井晴也四冠』といった類の絵馬がずらりと並んでいた。中には、プロ並みのイラストが描かれている絵馬もある。


(他の先生を応援している絵馬ってあるかな……)


 ところどころに掛けてあるが、ぱっと見た限り全体の七割近くが『亀井晴也』関連の絵馬ばかり。


 これだけ亀井先生ファンが神社に立ち寄っている。そして、必ず将棋会館に足を運んでいる。となるとアクリルスタンドの在庫数がどうなっているのか考えた藍は一気に不安を感じた。


(・・・・・・! クラウド二世と先生のアクリルスタンドのツーショット写真を撮ること夢が!)


 現在、部屋の片隅に生息しているクラウド二世こと、黄色の半月模様が可愛いハンゲツオスナキグモの雄だ。出会ったのはつい数日前のこと。部屋の窓を開ける時に壁を歩いているところに出くわしたのだ。冬を過ぎ春になっても姿を見せなったお気に入りのハエグモであるクラウドを失った後ということもあって、藍の心の傷を癒す存在になっている。


 大好きな亀井先生と大好きな蜘蛛に見守られながら勉学に励むつもりでアクリルスタンドを求め千駄ヶ谷に来た藍。彼女たちの言動から「完売」の二文字が浮かんでいくる。


 居ても立っても居られず、急いで神社に来た記念とばかりに札所で水色に桜の絵付けが施されている『水琴桜鈴まもり』を購入しリュックの奥底に入れると、猛ダッシュで将棋会館へと向かった。


 日曜日ということもあり公式戦の対局は行われていない。けれど、二階の道場は開いていることもあり、子ども達や付き添いの親そして将棋愛好家の大人たちが正面玄関を行き来していた。


 そんな人たちをよそに、彼女は何度もインターネットや本で見た『将棋会館』を目の前にし、彼女は入るべきかどうか悩みに悩んだ。憧れの亀井晴也が免状を書きに来る場所。そして対局をして戦っている場所。


 その度に、彼がこの自動ドアを通っていることを考えると、どうしても緊張して通れなかった。それなのに、人々は気にもせずに通過していく。羨ましい気持ちとなぜという気持ちが交差した。


(もういい。ここまで来たのだから入るしかない!)


 意を決した藍は胸の鼓動が高まる中、目をつぶって自動ドアをくぐった。通り過ぎ、そっと目を開き顔を左に向けると夢にまで見た『売店』がそこにあった。


 日曜日ということもあり、売店は将棋ファンが何人かいた。詰将棋を手に取っている親子連れ、ショーケースに入った駒を見ながら溜め息をついているおじさん。一角だけ、女性が集まる場所があった。


 察した彼女は、そっと忍び歩きをしながらその場所に近づいてみた。


「アクリルスダンド、ラスト一個。ギリギリセーフ!」

「超ラッキーだね!」


 女性ファンがアクリルスタンドを手に取ると、空っぽの棚が目に飛び込んできた。


(う、うそでしょう!)


 そそくさと店員さんがその場所に『次回入荷は未定』という残酷なお知らを貼る。藍はその様子を呆然としながら眺めるしかなかった。


 目当てのものが、数分の差、いや一分の差だった。もう少し早く着いていれば亀井四冠のアクリルスタンドは藍のものになっていたという事実に、彼女は絶望した。


 神社に立ち寄らずにまっすぐ会館に来ればよかったのか。いや、そもそも『二歩』に立ち寄らなければ確実に手に入っていた。


(味噌ラーメンの誘惑に負けた自分が悪いのか……)


 花より団子の自分を呪いつつ、藍は思い切って女性定員に声をかけてみた。


「すみません、亀井先生のアクリルスタンドは当分入ってこないのでしょうか」

「そうですね。今回も週末に合わせて準備したのですが。申し訳ございません」

「いえいえ。平日の方が狙い目なのでしょうか」

「何とも言えませんが、平日に商品が並んでいる時は一日で完売することはほとんどありません」

「分かりました。ご丁寧にありがとうございます」


 藍は定員さんに軽くお辞儀をし心の中でガッツポーズした。


(次は必ず店に寄る前に将棋会館に寄ろう。そして、平日なら運がよければ……)


 平日、部活のない日は家とは真逆の方向で千駄ヶ谷に来てここに来る。平日なら、もしかしたら亀井先生に会えるかもしれない。そんなことを妄想すると、さっきまで絶望の淵にいた藍はお花畑にいる気分になれた。


(アクリルスタンドは残念だけど、第二希望の扇子は残っているかな?)


壁側のショーケースの中で一つ一つ開いた状態で飾られている扇子を確認していくと、お目当ての扇子を発見した。


『刻石流水』


(こくせきりゅうすい。どんなに小さくても受けた恩は心の石に刻み、与えた恩義は水に流すように忘れる)


 一目で亀井晴也の書体と分かるほど、独特の癖字で書かれた四文字。


 二十歳の若者が選ぶとは思えない言葉。ショーケースのガラス一枚を隔てて向き合う藍は本人を目の前にしたかのように、恥ずかしさで扇子を直視できないでいた。


 (お金に余裕はある。そう、買おう。買うしかないのよ)


「す、すみません……。こちらの亀井四冠の扇子を一つお願いします」

「はいはい~」


 無事に会計を済ませ、扇子を受け取とる本来の目的の半分を達成した藍の心も少し晴れた。


 ひょんなことから千駄ヶ谷に通うことになったのだから、アクリルスタンドも遅かれ早かれ手に入るはず。そう自分に言い聞かせて将棋ファンの聖地を立ち去ろうとした。


 ちょうど、アクリルスダンドを購入した女性ファン達も会館を出るところだった。


(鳩森神社に立ち寄るのか、それとも駅に直行するのかしら)


 そんなことを想像しながら彼女たちを追い越そうとした時、ある言葉が藍の耳に飛び込んできた。


「ねぇ、晴君がよく頼んでいる将棋めしのお店に寄ってみない?」

「行きたい!今の時間なら混んでいないよね」


(将棋めし! そうか、そういう楽しみ方もある!)


 将棋会館での対局がある時、棋士は複数のお店からメニューから朝食や夕食を選んでいる。誰が何を頼んだのかは将棋ファンの間でも注目の的になっていた。


 タイトル戦では各地の歴史ある旅館やホテルそして寺社仏閣で行われるため、おやつを含めご当地の『将棋めし』は高い注目を集めている。とくに将棋界の顔でもある亀井四冠が食べたスイーツを求めて、提供したお店にお客さんが殺到することも度々ネットニュースでも取り上げられていた。


 貧乏女子高生にとって、『将棋めしのお店に行く』ことは敷居が高いイベントだった。楽し気な二人の後姿を見送り、トボトボと駅方面に歩きだした。その様子を見ながら、藍は呟かずにはいられなかった。


「マスターのお店は喫茶店だから配達していないものね・・・」


 偶然入店した千駄ヶ谷界隈の喫茶店は食事を提供しているお店ではなかった。


 もし、将棋めしのお店だったら、もし亀井先生のお気に入りのお店だったら知り合えるチャンスもあったのではないか。そんなことを考えると、マスターや内藤さんには悪いが、藍は少しがっかりした。


(亀井先生が好んで頼んでいる将棋めしに行くとなると、中華屋さんのユウキ亭、和食の藤なみ、やっぱりフレンチのソフィなんとかかな?)


 味噌ラーメンの味は忘れられないが、憧れの棋士が対局時に食べているご飯をいつか必ず食べる、と誓い千駄ヶ谷の街を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る