第6怪【ヒキガエルばあさん】前編
まだ携帯が世の中に普及する前の頃、小学五年生のオレは両親と一緒に都心から離れた町の古びたアパートに住んでいた。
そのアパートは家賃が安かったらしく、家族連れだけでなく、一人暮らしの人や年寄りも何人か入居していた。他人に興味がなさそうな派手な服の姉さんから、いつもビシッとスーツできめているおっさんまでいろいろな人が住んでいたが、オレはその中でも三軒隣のばあさんが大嫌いだった。
その人は子供心にも嫌なばあさんで、オレが友達とはしゃぎながらアパートの通路を走ると、玄関から浅黒くずんぐりした顔を出して「うるさいっ、走るんじゃないよ!」などと怒鳴られることがたびたびあったのだ。
当時のオレは母親の服に玩具の虫を仕込むような悪ガキだったため、そのたびに「うるせぇー、ばばあ!」と怒鳴り返していた。けれど、つるんでいた友達の一人が気の弱い奴で、アパートに来ることを嫌がるようになったため、三人で遊ぶのはもっぱら外か相手の家になったのだ。
母に聞いた話では、そのばあさんはもともと息子夫婦と住んでいたものの、嫁との折り合いが悪く結局出て行かれたらしい。そんな事情を知ったこともあり、オレ達はその偏屈なばあさんの性格と容姿からヒキガエルとあだ名をつけて、毛嫌いしていた。
ある日、オレがいつものように学校からアパートに帰ってくると、そのばあさんの家のドアが少し開いているのに気づいた。通りかかりに隙間から、こたつの中で寝ている小太りな背中がちらりと見えた。──嫌なもの見ちまった! オレはそう思いながら家に走って帰ると、勢いよくドアを開いた。
「ただいまーっ、ケンタの家に遊びに行ってくるから!」
「ちょっと待ちなさい。学校から課題が出てるんじゃないの?」
「帰って来てからやる~」
「こらっ、アツシ!」
玄関に鞄を放り投げて、母の叱り声を他所に遊びにオレは家を飛び出した。自転車を駐輪場から引っ張り出して走り出せば、友達の家はアパートから五分もかからない距離にある。川にかかった橋を渡るとすぐだ。青い屋根の家の前の駐車場に自転車を止めさせてもらって、門でチャイムを鳴らす。
「ケンタ、来たぞ」
「おー、玄関空いてるから勝手に入っていいよ」
オレはケンタにそう言われて家の中に入ることにした。ケンタはオレ達の中で一番身体が大きくて、クラスの中でも一目置かれる度胸がある奴だった。友達は大事にする性格で、一軒家に住んでいたことと両親が共働きのカギっ子だったから、オレ達はこいつの家に入り浸ることが多かったのだ。
リビングに入ると、オレより先に来ていた小柄なシンが眼鏡を押し上げながら笑った。こいつは気が弱いけど優しいし頭がすごくいい奴だった。オレ達は勉強でわからないことがあるとシンを頼り、テスト前はこいつを先生役にしてよく一緒に勉強もした。
「アツシ君、今日はなにして遊ぼうか?」
「そうだなー。ケンタがいいなら、昨日のゲームの続きにする?」
「悪い、今日は出来ないんだよ」
「なんで?」
「昨日さぁ、夕飯の時に母ちゃんが味噌汁ぶちまけて壊しちゃったんだ」
「ええっ!? 本当か?」
「ケンタ君の言うことなら、きっと嘘じゃないよ」
「シンは信じてくれるんだな。──疑うなら、アツシには証拠を見せてやる。ほら、これ嗅いでみろよ、味噌汁臭ぇから」
オレはてっきり親にゲーム禁止にされたことを隠して言いわけにそう言ったのかと思ったが、差し出されたゲーム機はしっとり濡れていて、嗅いでみるとほんのり味噌汁の匂いがしていた。
「本当だっ、ちょっと匂う!」
「だろ? 母ちゃんボケてるから、結構やらかすんだよなぁ。父ちゃんが今度の休みに新しいのを買ってくれるって言ってるから、そうしたらまたゲームしよう」
「そうだね。じゃあ、今日はなにをする?」
「あっ、じゃあさ、ヒキガエルに悪戯しにいこうぜ。実はさ、あいつの玄関が開けっ放しになってんだよ。コタツで寝てるみたいだし、ピンポンダッシュの代わりにドアを叩いて逃げようぜ。きっとあのヒキガエルなら怒って飛び出してくるぞ」
「いいな、それ! 面白そうだ。やろうやろう」
「僕はやだよ。あのおばあさん、すごく怖いもん」
「じゃあ、お前はドアを叩かなくてもはいいよ。そのかわりに大人が来ないように見張り役をしろよ。それならいいだろ?」
「う~ん、……わ、わかったよ」
「じゃあ、決まりな!」
困った顔のシンを半ば強引に説得して、オレ達は三人でアパートへと自転車を走らせることにした。
オレが二人を連れて自宅に戻ると母親はいなかった。テーブルにはメモが残されており、『買い物にいってくるね』と書かれていた。
大人の目がないことで悪戯をすることに躊躇いも遠慮もなくなる。オレ達は部屋の中でシンを中心に作戦を立てた。
「──作戦はこれでいいね? アツシとケンタがドアを三回叩く。それからすぐに家に逃げてくるから、僕は二人が飛び込んだらドアを閉める」
「鍵も閉めた方がよくないか? もし、ヒキガエルが追いかけてきてもドアさえ開かなきゃ捕まらないだろ」
「それいいな! ケンタの意見も作戦に入れよう。いいだろ、シン?」
「うん。これでおばあさんがドアを開けることはできないし、逃げる場所としてもアツシ君の家を使うのが一番安全だと思う」
「よしっ、ヒキガエルに今までの仕返しをするぞ!」
オレ達とケンタはシンを自宅に残して意気揚揚とばあさんの家の玄関前に向かった。すると、ドアに変化がみられた。指三本分しか空いていなかった隙間が、拳が入るほど広がっていたのだ。
オレは、それに一瞬だけ不思議なものを感じたが、さほど気にとめずに流した。後から思うと、この時の違和感を見過ごさずにいたら、オレ達はあんな恐ろしい目にあわなかったのかもしれない。
オレとケンタは隙間から中の様子を伺う。まだ、ばあさんはこたつに入ったまま眠りこんでいるようだった。白髪交じりの頭が見える。オレ達はこれから起こることを想像して笑いを堪えながら、ドアを力いっぱい叩いた。
バンッ バンッ バンッ
鉄のドアに両手を打ちつける激しい音が響く。作戦通りに三回鳴らして自宅にダッシュする。
ドアを開いたまま待っているシンの元に全力で走っていくと、あいつは戸惑った顔で首を横に振った。走りながら後ろを振り向いてみると、誰も追いかけてこない。
「なんだよ~、ヒキガエルの奴起きなかったのか?」
「こっちまで届くらいに大きな音がしていたのにね」
「カエルだから冬眠してるんじゃねぇの?」
「あははっ、あのヒキガエルは一応人間だから、もう一回やればびっくりして飛び起きるだろ」
オレ達は懲りもせずに、もう一度ばあさんの家の玄関前に戻った。そうして、ちゃんと寝ているのか確認するために、オレはドアの隙間から中を覗いた。その時、見てしまったんだ。
白髪交じりの頭がぐるりと回転して、白眼をむいたばあさんが口を大きく開いて恐ろしい形相でこっちを睨んでいるのを。
「うわぁーっ! 逃げろ!!」
「な、なんだよっ、どうした!?」
オレが悲鳴を上げながら逃げ出すと、つられたように走り出したケンタが追いかけてくる。オレは目に焼きついた光景に恐怖してひたすら必死に走った。すると、シンが泣きながら叫ぶ声が聞こえてきた。
「二人とも急いで! 追いかけて来てるよ!」
オレ達はその言葉に振り返ることが出来なかった。死に物狂いで走って自宅の玄関に飛び込んだ。シンが乱暴にドアを閉めて慌てて鍵をかける。
バンッ バンッ バンッ
ドアになにかを叩きつける凄まじい音がして、玄関ノブがガチャガチャと動く。
「なんだよこれっ!」
「嘘だろ!?」
「もうやだ、怖いよぉ」
オレ達は泣きながら身を寄せ合ってへたり込んだ。その間も、ドアを叩く音が激しくなっていく。
バンッ バンッ バンッ バンッ
バンッバンッバンッバンッバンッ
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