6

 それからそれから、僕はひとり洗面台で顔を洗っていた。

 顔を綺麗にすることが目的ではない、水で濡らしてシャキッとすることが目的だった。


 しかしながら、顔を濡らして、あまりの静けさに鏡を見つめたまま呆っとしてしまっていた。


「あ、どうも、入浴しますので」

「ああ、すみません」


 不意に声をかけられて、反射的に謝ってしまった。自分が悪くもないのに謝ってしまうのは、気の弱い証拠だ。

 普段あまり気の弱くない僕が、少し参ってしまっているということでもあった。


「あれ、あなたもしかして」

「私が、どうかしましたか」


 風呂は一般的で民家的なものがひとつ備えられていた、風呂に入るには服を脱がなくてはならない。

 そして構造上、服を脱ぐのはこの洗面台がある場所だ。だから大人しく洗面所もといこの脱衣室を譲る他なかったのだが。


 その顔に、否、その人の雰囲気に覚えがあったのだ。


「僕のこと、ここに連れてきた人だったりしません?」

「そうですね」


 やはりそうだった、あの時の和服の女性だ。

 顔も整っているし、その他筆舌も面倒になるほどに整いに整った人だ。


 例えるなら真面目な辞典のように整っている、何がそこまで整っているのか、分かったものじゃない。

 もしかすると、これも雰囲気の話なのかもしれない。


「やっぱりどこかで見たことある気がする」


この、というのは僕が熱中症で倒れかかっていた坂での話ではない。

 それよりももっと以前に、見かけたような気がするのだがどうにも思い出せない。


「あの、これからお風呂に入るんですけど」

「名前教えておいて貰えますか」

大江おおえと言います」


 やはりどこか、どこかで聞いたことがある気がした。


 懐かしいとさえ思わせるフレーズを、口に含んで転がしてみるが。その懐かしさが深い記憶として積もり、なかなかどうして答えとして掘り出されはしない。


「……うーん、いまいちピンと来ないな」

「あの、私の名前にピンと来なくてもいいので、出て行って貰えますか」


 着替えの服を抱えながら、少しずつ苛立ちが態度に出始める大江さん。

 僕は僕が完全に悪いことで喧嘩をするのは、あまり得意じゃあないのでそろそろ出ていくべきだろう。


 ただ、その前にひとつ大きく出てみることにした。


「ああ、出ていくよ、でもその前にどうして僕をここに連れてきたのかを教えて貰おうか」


 僕は僕が絶対的に悪いことで喧嘩をするのは避ける、しかし僕は相手が悪いことで喧嘩をしているのならどこまでも威圧的に出られる自信がある。


「……枯木様ならここにいる人達をどうにしてくれるのではと」

「なるほど、でも僕は探偵でも冒険家でもないぞ」


 頼られる理由が分からない。

 そもそも、理由なんてものがないはずだ。

 僕は一般的なただの一般人なのだ。つまりがこんな特殊的な事態で活躍できるような特殊な人間では無いということ。


「貴方は被害者トラブルユーザーですから、問題を解決することには長けているかと」

加害者トラブルメイカーじゃないところが皮肉だな」


 そう大江さんに指摘されて、思い直した。

 確かに僕は、一般人なのだが。

 しかし彼女の言う通り、特殊的な事に巻き込まれやすい一般人でもあるのだ。


「そういう訳です、お風呂にそろそろ入らせて貰えませんか」

「いや、まだある、ここに連れてくるにしても方法が他にある気がするし、許可を取りたかったにしてもほぼ取ってないみたいなものだ」


 許可らしい許可も出した覚えは、あまり無いのだが。

 それどころかなんだか詐欺にあったような気持ちにさせられて、鬱憤晴らしというような勢いで不満が口から溢れ零れる。


「それなら最初から誘拐した方が早かったと思うし、それにだ、僕が何故か夢遊病みたいになってるんだが、それはどういうことだ」

「さあ、私からもなんとも言えませんが、私は貴方をビーチに寝かせましたよ」

「やっぱり話があまり見えてこないし、なによりビーチに寝かせるな」

「そう指示されましたので」

「誰にだよ」


 一体全体、そんな指示をした輩はなにを考えていたんだ。


 最初からこの民家なんかで寝かせて貰えたら、僕はもっと本調子で居れたはずなんだ。

 おかげさまで昼に倒れてからまだ、頭がぼやっとしている。


「言えません」


 言わないだろうなと思っていたが、本当に断られてしまうとやはり反応に困る。

 それに大江さんの口調が少し厳しくなったように思い、そろそろ引き際を感じた。


「これ以上聞いても無駄か……」

「お風呂に入るので、そろそろ出ていってください」


 先ほどから同じ言葉が僕に向かって、投げかけられている。

 しかも投げる度に、球の速度が上がってきていて今やプロ野球選手並に速い。

 しかも全てデッドボール。速さが上がれば上がるほど当たると痛いものだ。


 しかし、僕はまだ食い下がる。


「その前に何か、有益な情報だったり何か共有しておいてくれるか」

「有益な情報ですか……」

「正直なんでもいい、有益じゃなくとも、ここに関することを」


 情報が少なすぎる。

 そもそも僕が人見知りで、あまりここの人達から情報を引き出せていないせいでもあるのだが。


「そうですね、たしか夜中に外は出歩かない方がいいと聞きましたよ」

「ほう、まあ確かに暗いでしょうからね」


 一応街頭を見かけたりしたが、如何せん夜の闇を照らすには心もとない量と質だった。

 きっと今頃、化け物みたいに大きな蛾なんかがたかっている頃だろう。


「理由がそれだけかは、私は存じ上げませんが」


 なんだか含みのある言い方だった。


「……自分で確かめてこいと暗示されている気がする」


 さりげなく答え合わせを促してみたが、どうやらそれに応じる気は無いらしく。

 淡々と、呆れと冷酷を板挟みにした態度で大江さんは入浴のための準備をし始めた。


「早く出て行って貰えますか、私が着替えるところでも見たいのですか」

「見たいか見たくないかで言えば、見たくないは選ばない」

「出て行って貰えますか」

「はい、すみません」


 追い出される前に、自ら洗面所から僕は出た。

 ここで印象を悪くしてしまうと、後々に物事が円滑に進まなくなってしまうかもしれない。

 ギリギリだったが、上手く立ち回れたと自負しよう。


「……出歩くか、夜」


 薄暗い静かな廊下に、古めかしい木の音を立てて、僕は僕の行くべき場所へと足を進めた。

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